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2025-05-13 21:26:00

3) 流祖は竹永隼人

星国雄 (初代) 門下では柳生心眼流兵法の流祖は竹永隼人となっています。これは今では自明のことにように思いますが、はっきりと流祖は竹永隼人であるとしたのは比較的最近です。これは星国雄が柳生新陰流の師範である柳生厳長、大坪指方との交流し、たびたび桃生の調査を行って数々の史料や師弟合祀碑が発見された結果によるものです。これには地元の郷土史家や大坪指方の協力も大きかったようです。出版物によりその経緯をみていきます。

星彦十郎晩年の昭和1758日に明治神宮で行われた「戦没将士慰霊 古武道各流大会」記録では流祖は「柳生美作守」、流派は「柳生心眼流 (甲冑兵法 小具足之型) となっています。

昭和34年の『宮城県史18(宮城県史編纂委員会 402ページ)では「元祖 竹永隼人は仙台藩浪人で、神道・神願・首座・戸田四流の末流で私に心眼流を立てて」とあって、これは寛政4年の『御家中士凡諸芸能調書抜』(宮城県立博物館蔵) によったものと思われます。

昭和53年『増補大改訂 武芸流派大辞典』(綿谷雪・山田忠史編。東京コピイ。848) では「はじめ庄内藩士の羽州帯刀 (戸沢帯刀と同一人か) 柳生五郎右衛門宗俊 (石舟斎の子) から伝授をうけて、神眼流を開創した。この流れは数伝して竹永隼人金次に至る。・・・(中略)・・・とはいうが竹永以前の伝承に関しては、なお正確を期しがたい。」とあります。

星国雄は昭和4050年代に島津兼治とともにたびたび桃生の調査を行っています。このときのことを「島津と自動車に寝泊まりしてパンの耳をかじりながら回った」と述懐しています。

同じく昭和53年『秘伝 日本柔術』(松田隆智 新人物往来社) には「柳生心眼流の初期の伝承者、すなわち元祖の羽州帯刀から竹永隼人に至る」とあります。なお、この本の柳生心眼流に関しての資料原稿は島津兼治から渡されたと聞いています。

「古武道 柳生心眼流」(星勝雄 昭和60) には「柳生心眼流の流祖は、以上に挙げた理由によって、竹永隼人であるとしたい。」とあり、このころにおおよその合意が得られたものと考えられます。これは私が大学に入学し仙台で柳生心眼流に出会ったころのことです。

平成元年になると『日本古武道総覧』(日本古武道協会) の柳生心眼流兵法の欄では「流祖竹永隼人」となっていて、以後この内容が引き継がれていきます。

 

私の頂いた伝書でも一番最初は柳生美作守、柳生宗矩、竹永隼人とさまざまで、文章中にも「竹永直人翁之所伝之兵法」、「柳生美作守之所伝之兵法」と異なって書かれていたりします。このように伝書によって伝系や内容が異なっていることは柳生心眼流ではよくあります。昔はこのような伝書の伝系や内容は、異なっていてもありがたくいただいてそのまま書き伝えることが美風とされていたので、疑問を挟まないということが多かったと考えられます。しかし星国雄は流祖の問題はゆるがせにできない大きな問題であるとは考えました。このため桃生の調査を行って詳細に検討して「流祖竹永隼人」を確定しました。今でも不明な点はたくさんあるのですが、このような経緯から星国雄の門下は竹永隼人が流祖であるとして、以降もこの決定を踏襲しています。