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81) 柳生心眼流の免許体系72 とどまらぬ心の稽古専要なり
不動智とは出発点 (動機) と目標を忘れないこと。それらを見据えてじっくり積み重ねていくことです。私たちの流れであれば活人剣。柳生心。危急の中でも生きること、守ること。平生でも生きること、守ること、そして育て生かすこと。桃生の『師弟合祀碑』の「秉心塞淵」の淵とは深くて広いことを示す言葉です。
仏教ではよく功徳や徳を海にたとえます。まだドンピシャの出典がみつけられていないのですが、星国雄先生は「一枝の枝のもとの水はやがて大海に入る」とおっしゃっていました。広い深い淵や海を満たすように世界中の川の上流で一滴一尺水を加えていく。半杓でもいい。今までの人々の努力によってすでに淵はいっぱいにたまっているのですが、さらにこれに一滴、ひとすくいの水を足すことに躊躇しない。これは危急のときでも同じだという道理です。水の流れる速度はいろいろでしょうが平生であれば選びに選んで余計な動きはせず、なすべきことを進めていきます。ましてや危急の時においてをやです。
それができるためには常の稽古でいつも研究していることが必要です。宗矩は『兵法家伝書』で「如何様の秘伝を得て手をつかふとも其手に心がとどまらば兵法は負くべし。敵のはたらきにも、我が手前にも、きってもつひても、其の所々にとどまらぬ心の稽古専要也」(どのような秘伝を伝授されてそれを使ったとしても、太刀をもつ自分の手に心がとどまってしまえば負けるだろう。相手の動きにも、自分の太刀を持つ手にも、切り込んでも突いても、それぞれのところに心がとどまらぬようにする心の稽古こそ大切です) と書いています。流祖もそういう宗矩に教えを受けて仙台に帰ってきました。私たちで言えば「条々三段の意味深し。工夫専用たるべきこと」です。口伝は言えないですが、これは表中極落などの七箇条だけではありません。教わった技すべてにおいてこの心得が大切です。桃生の師弟合祀碑の「誰か復た業を創り百世の師を継がん」という語句もまさにこれです。みなそれぞれに自分の状況はあると思うし、決して無理する必要はないです。それでもしっかり心の置き所 (無心) に心を置いて今日よりも明日、明日よりも明後日。私たちもまたとどまってはならないのです。
80) 柳生心眼流の免許体系71 いろいろの分別胸に候間
10月25日 (日) は天然理心流心武館の主催する拝島大師奉納演武に参加させていただきました。大塚篤先生はじめ御門下の方々には大変お世話になりました。直会での大塚先生や諸先生方のお話しも大変学ぶべきことが多く、お言葉を胸にまた精進してまいりたいと存じます。門人ともども深く感謝申し上げます。
急流の中に岩が立っていても水はその横をとどまることなく水しぶきをあげて激しく流れていきます。ゆっくりとした川に大きな岩があっても、水はその横をよっくりと通りすぎていきます。いずれも無心。心もこのように流れているといいます。平生であっても危急であっても心の道理は同じ。
沢庵和尚は『不動智神妙録』で「物に心が止まり候へば、いろいろの分別が胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候」(なにかあったときにそのことに心がとらわれてしまうと、つぎからつぎにいろいろな考えがおこってきてしまい、思考の動きで胸の内がいっぱいになってしまいます)。不安や恐怖でいっぱいになる。そして体も動かなくなる。良く見せようと思って飾ろうとする。何か思ったような動きになる。これは水が堰にとどまって動かなった姿です。まさに無心の大事が大切。状況を見て怒りや恐怖にさえぎられてしまえば生きるという目的すら忘れてしまいます。あしががたがた震えてきます。これが動転です。居つくことではありません。かわすことが大切です。
ですから私たちの流れでは基本二十一箇条を無心にとるということをとても大切にします。初めはとても無理です。ですが目録甲冑くらいになったらそういうことをこころがけていただければと思います。そして無心に激しく二十一箇条を取っている、生きるために動いている、はたらいている。その本来の姿にいつでも戻っていけるようになればいいのです。
誤解しないでほしいのは、平生においてもたくさん仕事をしたから不動智が開けたということではないです。人間ですから疲れるし、たぶんそんなことを何か月も何年も続けていたら消耗してやがて心の病になるでしょう。無理は禁物。最近はAIさんが手伝ってくれるので一部お願いするといいです。そういうことではないです。スーパーマンになれということではありません。休めるときにはじっくり体を休める。1秒に1000回の測定をしろ、何万通のメールを発信しろというのは高速回転する機械さんたちにお任せすればいいです。
仕事の基本は人に喜びを作り出すこと。人が本当に必要と思うものを作り出すこと。買ってよかった、サービスを受けてよかった、おいしかった。それに対して価値が定まります。そして価値に見合ったお金をいただき生活する。価値に見合った適価を払う。生きがいをもって仕事ができる。そして次世代に向けて人を育て環境を育てていく。すべてはとても無理ですけど。普段から情報を集め考えていくことは大切です。まさに「ちゃくちゃくと」とです。
79) 柳生心眼流の免許体系70 千晩通いの肝試し
沢庵禅師の「身を動転せぬことにて候。動転せぬとは物毎に留まらぬ事にて候」(体を動転させないことです。動転しないというのは目の前の事象に心をとどめないことです)「物一目見て、その心を止めぬを不動と申し候」(なにかを一目みてもその心をとどめないのを不動というのです) をもう少し検討したいと思います。
武道的な意味でまず参考になるのが、新田で星貞吉の時代に合った千晩通いの肝試しです。昔、新田では「千万通いは皆伝を許す」というのがあって、千晩通った人もけっこういたそうです。でもそのままで皆伝は許しません。千晩に近くなると、途中の藪で肝試しをします。人が暗闇に隠れていて、上からものを落としたり、人魂見せたりいろいろといたずらをします。そのときに動転して大声を上げたり腰抜かしたなどという人は不合格です。ちらっと見たらにやっと笑って「これはこれはご苦労様でございます」と言って通り過ぎるくらいの度量がなければ皆伝は許さなかったそうです。これはいい例です。今だったらスルー。
実はこういうことも急に何かが落ちてきたらやはら驚くと思います。その前から何かがいるなということには感づいている。そのうえで「ああ、誰かがいたずらしているのだ」とわかるという順序だてがあります。この気づき、なにかに気づくというのは私たちの流れでは武道を稽古していると自然にできるようになっていくといわれています。二十一箇条を無心に稽古して心を澄ますことです。「俺のように鈍い者でもそうなるのだから、君たちも必ずできるようになる」とおっしゃってくださいました。
星国雄先生は「武道家であれば、普段にこやかにしていても、何か殺気みたいなものを感じるとキッと目だけ厳しくなるが、また戻る。これはしょうがない」と言っていました。キッと見てすぐ戻る。留めない。しかし油断なく周囲を観察し、準備はしています。
江戸時代、使者の間で待つときもそうでした。どこの屏風のうらに武者が潜んでいるか。道すがらずっと離れたところに隠れている相手も感じなくてはいけないといいます。難しいですが。このとき自分から行って斬るではないといわれます。相手がわが身に近づいてきたとき勝負の間合いになります。何歩でくるか、きたらどうよけるか、こういたことも待っている間に考えておくものだと習いました。なかなかこのような場合では平然とするというのはできないかもしれないですが・・・ これは刀の時代の話ですので、飛び道具になればまた異なることと思いますし、現在とは状況も違いますので、今は今で身の守り方は考えなければなりません。こういうことから何かを学んでいただければと思い、参考まで申し上げました。
宗矩も『兵法家伝書』で、「二目遣の事 ・・敵のはたらきを見る見るようにして見ず、見ぬようにして見て、間々に油断なく、一所に目ををかず、目をうつしてちゃくちゃくと見る也・・・敵のはたらきをちゃくちゃくと盗み見に見て油断なくはたらくべき也」(二目つかいのこと ‥敵の動きを見るときに、見るようにして見ず、見ないようにして見ている。その間も油断なくひとつところに目を集中させず、目標を移動させながらちゃくちゃくと見ていきます) と述べています。
この「ちゃくちゃくと」というのが大切で、着々と、つまり遅滞なく確実に。つまり相手の体のいろいろな部分から目も心もとどめず情報収集し、武器が身に届かんとする瞬間まで油断なく当たれと。「二目つかひ」という言葉自体は能の言葉で「見とめぬ也」(目線を一所にとどめないこと)と書いてあります。そして、こういうことは平生においても、いろいろと状況の変化を感じ取って仕事をしていくことにも通じていきます。
78) 柳生心眼流の免許体系69 一心の動かぬ、身を動転せぬ
余計なことに目が行くことが多い世の中ですが、目的に集中することが大切です。そして目的のために動き働いて少しも止まらない。自分の仕事をしようとしてインターネットを開くと、ニュースや広告、フィッシングメールなどに気を取られて本来の仕事を忘れてしまったりします。これ、ひっかったということです。
自然で何気ないほどひっかかったりします。犬が動きを止める、鳥がこちらを向く、向こうの人が動いている、それだけでそれに反応してしまう自分がいたりします。こういうことを兵法に使うこともあります。
それらに気をとられず平然として自分の仕事をする。沢庵禅師の文脈ではこのようなことができるようになることを「不動智」が開いたと言っています。
『不動智神妙録』では「不動とはうごかずといふ文字にて候。智は智慧の智にて候。不動と申し候ても石か木かのように、無性なる義理にてはなく候。向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、卒度も止らぬ心を、不動智と申し候」(不動というのは、動かないという文字です。智は仏様の智慧の智です動かないといっても、石や木のように心がないので動かないという意味ではないです。前にも左にも右にも、十方八法のどのような方向にも心は動きたいように動きながら、少しも止まらない心を不動智といいます)
これはお不動様がわき目もくれずに衆生済度のために動き回っていることにたとえています。菩提心のためにはたらいてわき目をふらないのがお不動様です。常に目的のために奔走して心が揺るがないということです。お不動様の活動はそれだけにとどまるものではないのですが、沢庵禅師はその一部の側面をたとえて武道をする人のために説明をしています。
「不動明王と申して、右の手に剣を握り左の手に縄を取りて歯を喰出し眼を怒らし仏法を妨げん悪魔を降伏せんとて突立て居られ候姿も、あの様なるが何国の世界にもかくれて居られ候にてはなし。容 (かたち) をば仏法守護の形に作り、体をばこの不動智を体として衆生に見せたるにて候」(不動明王というのは、右手に剣を、左手に縄を持って歯を喰いしばり、目を怒らせています。仏法を妨げようとする悪魔を降伏しようとして立っていらっしゃる御姿ですが、どこかの仏国土に隠れていらっしゃるのではありません。本体はなにかといえば不動智のことを示していて、姿を仏の教えを守る形に作って私たちに見せているのです)
このお不動様の尊像は、実は私たちのため現れてくださった姿で、本来お不動様に姿形はありません。そういう状態を法身といいます。そこから慈悲の心をもって立ち上がってくださった姿です。ですので、それぞれの状況、それぞれの時間と場所、それぞれの姿で現れて衆生を救っていらっしゃるので、あるときは笑っていらっしゃるかもしれないです。ですがここではそういうように、つまり怒りの御姿 (忿怒) を見るということが大切です。そうすると、
「一向の凡夫は、怖れをなして仏法に仇をなさじと思ひ、悟りに近き人は不動智を表したら所を悟りて一切の迷いを晴らし、即ち不動智を明め」(一心にお不動様を信仰している凡夫からみれぱ、こわい御姿だ、仏様に迷惑をかけるようなことはすまいと思うし、よく仏教を学んだひとであれば、その御姿が不動智を表していることを知って、その場で不動智の何たるかを理解す) るようになる。
本当に誤解のないよう申しますが、お不動様の持たれている剣は仏様の智慧 (空性・縁起を理解する心)、そして縄は慈悲 (あなたから離れないという慈悲の心、方便ともいいます) を表していて、お不動様の心は常に菩提心に住して、そのような働きにいそしんでいらっしゃいます。そのエネルギーがすごい。決して縛って切ってやるでも俺がたたき斬ってやるはないです。ただ、見る方によっては自身にそういう心があるためにそのように見えてしまい、怖くなります。降伏 (ごうぶく) いうと何か怖いイメージですが、降伏のもともとの意味は心を制御 (調御ともいいます) することです。つまりコントロールをすることです。人は心をコントロールしないことで不幸になっていく、つまり同じ状況にあってある人は幸いと思い、ある人は不幸だと思うというのが仏教の基本的な立場。ですので悪魔というのも自分の煩悩を言っていて、外因によって振れうごく自身の心です。自分の煩悩に勝った人を真の勇者 (勝者) と仏教では呼びます。
「この心法をよく執行したる人は悪魔もいやまさぬぞと知らせん為の不動明王にて候」(このようなこころの道理をよくよく考えて修行する人は悪魔というのはいないのだ、つまり自分の中に作り出したイメージであり空であるということを知らせようとして不動明王がいらっしゃるのです) 自分の煩悩によって悪いことをしてしまう、家族や先生、仏様の悲しむようなことをしてしまう。これをしないようにという戒めの御姿でもありますし、つらい状況のときに本当に何をしたらいいか、どのように動いたらしたらいいかを見抜けないで、自我意識によって別の行動をしてしまったりします。そういうときこそ周りの人たちの幸せを考えて行動していけば自分も救われていきます。悪いことがおこったときもどうそれを回避し、何を学ぶかはとても大切です。
「然れば不動明王と申すも人の一心の動かぬ所を申し候。また、身を動転せぬことにて候。動転せぬとは物事に留まらぬ事にて候」 (そうであるから、不動明王というのも人の心の動かないところを言っています。また、体を不要に動かないさないことです。ものごとにとらわれないことです) ここからが禅的な表現です。お不動様も観音様も円相も「関」とか「無」とか「忍」とかの文字も、実は自分自身の心身、ひいては行動や生き方に当てはめ顧みていきます。まさに「心の置き所」です。
77) 柳生心眼流の免許体系68 まっすぐな心
つらいことがあっても武道は自分の心に立ち返って、自分に足りない点を探し補っていくことが大切です。私たちの流れでいう「まっすぐな心」。
「己が自悟自得せねばならぬ法なるぞ」です。師匠が教えるのでない。自分で磨く。自分で見出さなければなりません。まっすぐな心で、よく学び、よく稽古し、よく考えて、疑問があれば質問し、正しく着実に自分のものにする。生きていくということもその繰り返しになります。自分で考え、よく最善を選びとり、積み重ねていく。
令和8年9月20日の新田柳心館創立九十周年記念式典で、来賓の方が「不屈で誇り高い新田の精神」とおっしゃっていました。まさに納得。星国雄先生もそういう方でした。「負けていてはいけない」「つらいことがあっても心まで腐らせてはいけない」と言われました。新田でも3年続けて米が不作ということがあったそうです。それでも屈することなく生きていく。家族を守り育いていく。本当に大変なことだと思います。先生自身も大坪指方先生から「どこまで続く夏の坂道」と評されたそうです。「春の坂道」ならぬ「夏の坂道」。先生はいろいろなことを背負って坂道を登られました。
「つらいことがあっても心を腐らせてはいけない」これを先生は「柳生心」とおっしゃいました。つまり「まっすぐな心」。世の中が登り坂のときも下り坂の時も背筋(身)はまっすぐ。こころ (心) もまっすぐ。働き (神) まっすぐ。自分がどう動けば周囲に良い結果がもたらされるのか。自分はいつも一人ではない。いろいろな方々に支えられて今がある。この「まっすぐな心」、「正しく生きようとする心」、「義」とも「直心」ともいわれます。そしてこれを「神妙剣」ともいいます。(兵法では身体の神妙剣をよく取り上げますが、心の神妙剣ももちろんあります。心法と刀法は一致するのが柳生の流れです)
私たちの流れではこれはどのような人にもあるといわれています。星国雄先生が亡くなるほんの少し前、先生は私に「おれは人々のなかにある正しく生きようとする心を拝んで生きてきた」とおっしゃいました。先生の兵法家としての一生を先生ご自身が総括した、私たちにとってとても大切な言葉です。先生の葬儀での弔辞にもこの言葉を入れさせていただきました。どんなひとも、うそを言おうが、悪いことをしようが、途中で曲がろうが、傷つこうが、自暴自棄になろうが、こころの奥底で人は正しく生きていきたいと思っている。つまり幸せになりたいと思っている。その心の神妙剣を拝んで生きる、それが私たちの流れの姿でもあります。
柳生新陰流のホームページを拝見したところ、初めのページに柳生厳信先生のお写真とともに「自己の心を正し、絶えず向上させていく」というお言葉がありました。柳生石舟斎の言葉に「昨日の我に今日は勝つべし」というのがあります。まさに武道の中心であり、結論。そしてありがたいことに柳生の流れである私たちにもこの心が伝わっています。まさに戦乱の世を生き抜いた先師様方の心です。
