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72) 柳生心眼流の免許体系63 此の太阿の利剣、人々具足し箇々円成す
『太阿記』の中で『不動智神妙録』の本心と妄心のように「真我」と「人我」を持ちだして真我が大切なことを説明しようとします。ここでは『不動智神妙録』で「心」と提示していたものが、さらに具体的な形で「我」(「が」と読みます) と示されます。仏教的・哲学的なところもあり、初めの段階では「心」として説明したのでしょう。自分の「心」とは何かをある程度坐禅とかしてわかっていないと、何か別の何かと勘違いしてしまう可能性もあり、初めは「心」と説明していたのではないかと思います。
仏教の話になってしまいますが、すべての煩悩の根本は 「無明」(むみょう)といい、自己執着 (我執) のことです。つまり、自分を実体化し (我)、自分のもの (我所) とそうでないものに区別し執着する働きからすべての煩悩が発しています。この「我」や我によって作られた自分の世界 (家、自分が作り上げた概念の世界) がなんたるかが本当にわかったときに、お釈迦様は「家を作る者よ、汝の正体は見破られた」(法句経) とおっしゃいました。
「我」とはサンスクリット語のアートマンを訳した言葉ですが、ここでは普段私たちが「私」や「人」と思っているもの、あるいは思い込んでいるものと考えると分かりやすいと思います。沢庵禅師は『太阿記』で私、つまり我 (が)、それには普段自分の思っている「私」(人我) とその奥底にある「私」(真我) の2つあるのだと言っています。つまりふたつの私。このうちの真我は仏性であると禅師は述べています。
「真我の我とは天地未分已前、父母未生已前の我なり。此の我は、我にも鳥獣畜類草木一切の物にある我なり。即ち仏性と云ふもの是なり」(真の我というときの我は、天地とか父母とか概念で考えている世界の奥底にある我であって、この我は私だけでなく鳥にも獣にも、家畜にも、草木にも一切の「物」にある我です。つまりは仏性といわれているものがこれです) とか、「此の我は影もなく、形もなく、生もなく死もなき我なり」(この真我の私とは姿もなく、形もなく、生まれるということもなく、死ぬということもない私です)とか。つまり、『不動智神妙録』の本心に相当すると考えたらいいと思います。あまり言葉にとらわれないでください。
この本心、仏性を天下に比類ない名剣にたとえて太阿の利剣と示して、「此の太阿の利剣、人々具足し箇々円成す」(この仏性というのは、ひとりとひとりが初めからもっているもので、また一つ一つがすべて完成している)とか、「是の心は生の時に生ずるに非ず。死の時に死する非ざるが故に本来の面目と云う」(この心 (本心、仏性) は人が生まれるときにできるものではない。人が死ぬとき一緒になくなるものでもないから、ずっと昔からある本当の顔ともいう) とか説明しています。
ここらへんは仏教そのものでとても難しいと思いますが、本心・真我・仏性は私たちが生まれる以前から死んだあとも、ずっと始めなく終わりなく続いているもので、仏性とも本来の面目ともいって、(私たちの流れの心・無心もこの意味を含みます) 私たちひとりひとりにはみな完全なものが備わっていると言っています。
この仏性は本当は誰かがどうにかしようとしても、どうにかなるものではない。「天も之を覆すこと能わず、地も之を載すること能わず、火も之を焼くこと能わず、水も之を湿すこと能わず、風も之を透すこと能はざるが故に」。つまりどうしようもない。龍樹は空であることの理解によってものを語る人に概念で論難してもどうすることもできないと言っていますし、臨済禅師は虚空にくぎは打てないといい、お寺には空の象徴として仏様を安置しているのだと瑩山禅師はおっしゃっています。
そして沢庵禅師によると、その仏性のはたらきは「彼の名剣の刃に障るものなきと一般なるが故にこの妙用の力を太阿の剣とは名づくるなり」(あの名剣の刃にかかっては何でも切れてしまう (つまりとても固いものでも妨げられない、何によっても妨げられない、無制限) のと同じであるがために、この素晴らしい仏性の働きの力を太阿の剣と名付けるのだ)とのことです。
71) 柳生心眼流の免許体系62 『太阿記』
本心と妄心の話を続けていきます。こういうことって、角度を変えて何回もきいているうちに、ああ、そうかとわかってきたりします。あまり一生懸命聞きすぎない方がいいかも。あまり難しいと思ったら、読み飛ばしていただいていいと思います。あるときふっとわかったりします。
『兵法家伝書』で、宗矩は「心に本心妄心とて二つあり。本心を得て本心の様になせば、一切の事すぐ也。本心、妄心におほわれて (覆われて) まがり (曲がり) けがれ (穢れ) ぬれば、一切のしわざ (仕業) まがりけがれぬる也。本心妄心とて、黒白なる物にならひて各々あるべきにあらず。本心と云は本来の面目、父母未生以前よりそなはりて (備わりて) かたち (形な) ければ生ずると云事なし。滅する事なし。」と説明しています。
現代語にわかりやすく変換すると、「心には本心と妄心との2つの心があります。本心というものが分かって本心にしたがって生きるようになれば、すべてのことがまっすぐです。本心が妄心におおわれてしまって、曲がったりよごれてしまえば、することはみなよごれてしまいます。本心とか妄心とかいつても、白い色した心と黒い色した心が物のように存在しているわけではありません。本心というのは本来の面目といわれたりする心で、両親が私が生まれたことにより父母となる前から (つまりこの世に私が生まれる前から) 私に備わっている心で、形もなければあるところで生じたということもありません。そうですから、あるところから滅するということもありません」
自分だけで生きるためなら周囲はどうなってもいいというのは「我」の極端な形で、そこまでいかなくとも人は自分にとって損か得かということをある程度量って生きているのが世俗です。もちろん私もそうです。我は捨てられないし、生きる以上捨ててはいけないです。そういったところで働いている心は「妄心」 (自己を中心とした概念・区別の世界) と呼ばれます。ある意味で私たちは妄心のかたまり。
真面目に生きているのに妄心とはなんだと怒らないでください。仏教はよく2つに分けます。今は2つに分類して考えているということなんです。色 (「しき」と読みます。物質的なもの)と心、世俗諦と勝義諦、色身と法身、慈悲と智慧、衆生と仏とか。そして基本的にその2つは左手と右手を合わせたときのように不即不離の関係 (不二) にあることが多いです。
別の話かもしれませんが私たちの流れでも表と裏は不即不離です。伝書で文字がかいてある表と真っ白な裏がありますが、まさに紙の表と裏の構造になっています。表の技と裏の技は両者が密接に結びつかないといけません。独立に両者があるわけではありません。どう結び付けていくか、こういうところをしっかりとわかっていくことが稽古です。
さて、沢庵禅師は『不動智神妙録』より後、晩年近くになって『太阿記』というのを書いていています。学問的に確定しているのかわからないのですが最近ではこれも宗矩や家光のために書いたという理解になっているようです。
『太阿記』は武道というよりは禅的な仕様になっています。ある程度武道や仏教の基礎が分かった方向け。少し難解な書になっていて漢文だけでは難しいと思ったのか、自注 (自分で書いた論書に、自分で注釈をつける) として解説を付けています。武道の解説というよりは武や剣、勝負という、当時の武士が関心を持ちそうな話題や言葉から入って、禅の奥深いところに導こうとする意図がうかがわれます。ですので武道に入ったばかりの方が初めて手に取るにはかなり難易度高いです。ただ宗矩に示されたということであれば、ある程度武道が分かった来た方向けに少し触れておいた方がよいと思われます。
70) 柳生心眼流の免許体系61 本当は自分は何をしたいのか
こういうことは龍樹の『中論』にいろいろな角度から詳しく考察されています。中論の冒頭に帰敬偈 (ききょうげ) というのがあって、「滅するのでもなく、生まれるのでもなく、途切れるのでもなく、ずっとあり続けるのでもなく、同じ (一緒) でもなく、異なる (別々) のでもなく、行くでもなく、来るでもないという縁起を、ある方 (お釈迦様) が説かれた。戯論 (概念・思考の空回り) を鎮める吉祥である仏の教説の中でも第一であるそのようなものに礼拝します」と書かれていて、これが中論の貫通するテーマになっています。(羅什訳中論では「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不多 不来亦不出 能説是因縁 善滅諸戯論 我稽首礼仏 所説中第一」) 以後のたくさんの偈文で龍樹はくりかえし概念の作り出すトラップに「あなたはそう思っているのでしょうが、本当にそう言うことができますか?」という雰囲気で問いかけます。龍樹はそれに対していろいろと検討を加えます。結果的にはその区切りや概念 (戯論) を作っているものの正体は自分という虚構 (我、妄心) であることに気づきます。
人は0か1か。自分とそれ以外。あるところから区切って区別して思考する、そういう2値の思考をしてしまいがちです。統計でもよく使います。これは判断にはいいです。わかりやすいです。これは生物が生き残るために獲得した、もっとも生存とリンクする本能かもしれないです。その判断ができなければ、種として生き残っていくことは難しいでしょう。とても大切な本能ですが、うまくいかなくなってくると問題を生じます。たいていは自我意識が亢進して自分を守ろうとするあまり、たとえば不要な攻撃をしてしまったり、怖くて体が動かなくなってしまったりします。
本当の自分は本心ですが、普段は妄心があまりにも親しいので妄心はあたかも自分であるかのごとくふるまいます。「そういえば、あのとき・・・」「あの人はこんなことを・・・」「どうして私は・・・」などなど。しかしこれは本当の自分ではない。「思考」「情動」でありいわば脳のおしゃべり。人生がうまくいかなくなったときにこのことが分かっていないと、自分を追い込んで本当に危険なことになります。人に向けた攻撃の矢は自分にも向かっているのです。そういう自分を観察しているもう一つの自分がいる。こういうことが分かっていくのを最近の心理学ではメタ認知といいます。第三世代の認知行動療法の「マインドフルネス瞑想」では、普段は本当の私 (全く一緒ではないのですが、ここではわかりやすく本心と同じと考えてください) と虚構の私 (妄心) が一体になっていて、「刺激→思考→衝動」が一瞬におこっているものを一つ一つ分けて分析していくことで、これは「刺激」だ、これは「思考」だ、これは「衝動」とわかっていきます。こういうのを「ラベリング」といいます。結果この2人の自分を分けて考えられる能力を培います。
人生がうまくいっているときはわからないのですが、何かのきっかけでうまくいかなくなると、人は自分の生みだす概念によって苦しみます。そうではない、そう苦しまなくていいというのが空のメッセージの1つでもあります。本当はどうなのか。自分は生きたい心、幸せになりたい心がある。星宗家は「そのときなんだ。自分が本当にしたいのは何なのかよく考えることだ」とおっしゃっていました。頭のぐるぐるに惑わされずに心の底から自分の本当の願い、何をすべきなのかに気づいていく。人生は幸せな時も大変な時もある。大切なのはそこの場で何を学び、何を得ていくのかということです。苦しみが幸せの原因になっていく。号泣し慟哭するような悲しみにあってさえ、そこから何を学ぶかによって人はよい方向に変わっていくことができます。
69) 柳生心眼流の免許体系60 不生不滅
以前心が生じたり、滅したりということをお話ししましたが、もう少し詳しく考察します。
確かに心は変化はしています。しかしある時点で生ずるというのは、「ここから生じる」という区切り・境界線 (辺とか際・辺際といいます。図形、例えば三角形の辺と同じ意味です) が必要ですが、どこまでこれを細かく割っても最後に残るような点はみつかりません。
数学でもユークリット幾何学で線は小さな点の集合と仮定していますが、それは仮定しているのであって、統計解析では線上に確率分布を仮定することもできます。そうすると別の世界が見えてくるという話です。
生まれたとき、起きたときと区切っているのは妄心・概念のはたらきで、世の中では便宜上実際に生まれた時を「ここだ」といっていますが、「ここと定義すればここ」というのが実際です。絶対的なものがあるのではありません。
区切りがあるなし、別の状態になるというという意味では滅するも同じことです。従って人生などすべての時間的空間的な広がりに対して同じようなことが言えます。(世俗の言語習慣では)とおり一遍には正しいように見えて、詳しく吟味すると「ここから生まれたといえない」ということです。このことを不生といいます。同じ理由で不滅も区切りがみつけられないので滅しているといえないということになります。これを不生不滅と表現しています。決して新しい意識になっていないとか、人間が生まれていないとか言っているわけではないです。自分では正しく認識しているつもりで、よく吟味すると自分で物語を生み出し、その認識 (概念) に自分の心がトラップされていることが問題なのです。こういうことはよくあります。
自 (自分)と他 (非自、つまり自分以外)を分けているのもそうで、それを定義すればそう思えるわけですが、どこからか他かというのはもともと絶対的に決まっているものではありません。自分の手は自分のような気がしますが、自分の髪の毛はどうでしょうか。自分のおなかは自分のもののように思いますが、腸の中の内容物や細菌は自でしょうか、他でしょうか。諸説ありになってしまうかも。自分の細胞ひとつひとつの遺伝情報は、自分のもののように見えて、実ははるか昔からの数えきれないご先祖様たちの生活の営みの集大成でもあります。人どころかもっと先まであったりして・・・多分あるのでしょう。進化論的には。
その場その場によって、見方、立場を変えて生きているのが私たちの現実です。夫であり父であり、子であり孫であり、友達であり、先生であり、弟子であり、男であり、買い物客であり、事業主であり、医師であり、患者であり、乗客であり、運転手であり・・・つまり私といっても決まったもの (自性といいます) はなく、関係性によって名前 (仮名・概念) がつくということ。子がいるから父母とよばれる。これを相互に依存しているといい、縁起しているともいい、また空であるといいます。竜樹は「縁起しているものは空である」と説明します。
68) 柳生心眼流の免許体系59 有無と手字種利剣
私たちが生まれたり死んだり (見えていたり見えなくなったりするように見える) のは実際そのように見えているのですが、その動きの本体は心、あるいは心の相続 (心相続) ということになります。有無というのは自分が認識できるかどうか、つまり目の前に見えるかどうかで私たちは量ってしまいます。(こういうのを「有無の見」とか「量」といいます) 物質的なもの (仏教的には色といいます) は常に変化して、あるときは見えある時は見えなくなるもので、その裏で働いているもの (心、仏性、あいつ、かれなどいろいろに呼ばれます) はいつもそれと一緒に働き活動していて、いつもある (常なるもの) ものです。『玲瓏集』で沢庵禅師は「その源をよくたづねもてゆけば無始の一念にして」と表現しています。つまり始まるのない昔から心が続いていく。本心のことです。
ここで誤解をしていただきたくないので申しますと、これは沢庵禅師も宗矩も僧侶でない人にわかってもらおうと思って理解しやすいように工夫して話しているわけですが、仏教的には (つまり専門職向け、あるいは参学してある程度知っている在俗の方向けには) これだけではまだたりないのです。つまりなにか具体的なものでたとえると、どうしても実体的に受けとられやすいので、対象 (境・色) も映像・幻化をイメージしやすいものにたとえたり、それを把握している側の心である概念 (妄心) や裏で働いている心 (本心) などももう一押しして「空」(自性によって空とか言ったりします) であることをいったりします。
日本ではもともと神道の考えもあるためお坊様方も使い分けているとは思いますが、仏教では「魂」を独立した実体としての存在とは見ないので、心が続いていく(心相続) 状態というふうに考えます。『玲瓏集』では沢庵禅師は「その源をよくたづねもてゆけば無始の一念にして根 (感覚器官とそのはたらき) もなきものなり。根なくして先般万般の物出生する、これを妙ともいへり」と結んでいます。これは本心のことです。
一方、兵法としての理解は「見えるか見えないかは相手の心によって現れてくる」でよいと宗矩は考えていたようで、宗矩はこの理解を応用していろいろなところで手字種利剣の話が出てきます。これは主には手のうごきですが体の動きも含んでいます。これらの動きを「有無」とも言って最初からよく見て掛かるよう教えています。
この「手字種利剣」は十字、種子、手裏剣、種利剣などいろいろな書き方をします。私たちの流れでは十字や十文字は使いますが、しゅりけんの言葉は使わないで別の言葉を使います。
『月の抄』で十兵衛は「十文字とは種子 (注 しゅうじ) の改名也」「十文字にさえあへばあたらぬ也」「手裏見は手の内也」と記しています。またこの「裏」 (おそらくは裡の代用) の字に深い意味があって、中墨、高上、神妙剣の意味を含むとも書かれています。(「裏の字に心持あり。理に云。衣のうちに里をつつむと云心持あり。里は中墨、高上、神妙剣なり。心を衣につつみて置となり」) 私たちの流れにも「十字神妙剣の大事」という口伝があります。
これは兵法の基本の基本であるため、いろいろなところで言及されています。たとえば、『兵法家伝書』の「一 有無、拍子 附有も有、無も有と云事」では「太刀をにぎる手に有無と云事あり。秘伝也。是を種利剣と云也」としています。つまり、相手の心の状態によって手や体にいろいろな状態が現れたり消えたりするので、相手の太刀を握る手の状態がいろいろと変わるのですが、ここをよく見ろと言っています。目で見るというより心で見ることになります。これはうちの流派でも同じで、伝書に一々書くことではなく、立ち合いでいろいろと教えないといけないところです。なので宗矩も「如此云うとも相伝せずぱ此等の言葉しりがたき事也」言っています。
話が複雑になるのでそのあとの「有無非二」は飛ばして、結局「此種利剣の有無を見ることちがはば百手をつくしてつかふとも勝利あるべからず。百様の兵法も此の一段に極まる所也」と結んでいます。
