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51) 柳生心眼流の免許体系43 秘するはしらせむがため その3
この日曜日は子供の大学の卒業式でした。いろいろな式辞もいただいて親としても大学の方々に感謝するばかりでした。『蛍の光』の合唱は2番まで歌われて、いままで何となく歌っていたとこですが、「止まるも行くも限りとて、互いに思ふち(千) よろづ (万) の心の端を一言に、さきく (幸く) とばかり歌ふなり」とありました。留まる人も進む人も道は様々で互いに思うことも数限りないけれども、その思いを一つにしていうなら、みな幸せであってほしいと私は歌う」という意味でしょうか。ほんとうにそうだなあと思いました。
さて、私たちの流れで興味深いのは、伝授の形では上の技の一部がさりげなく下の技の一部に組み込まれています。そのときになっていきなりやれと言われてもできないので、あらかじめ気づかれないように、でも上の技の一部をまぎれこませているのです。こういうのは「前稽古」といって先師様たちの教育システム的な配慮です。
晩年の星国雄先生は、「今日はこれを稽古してみよう」「今日はこれを研究してみよう」と、毎回ご自身でテーマを決めて、同じ技をあちらからもこちらからも見方を変えて指導してくださいました。こういうのを砕くといいます。ここがうちの流れの命でもあります。師匠が良く砕いて教えていないと、決められた技しかできない弟子になってしまいます。最終的には一手で勝つということでありますが、これはいろいろの場合に対応できるということを言っているので、大部分の方はよく砕いていろいろな場合を教えてもらわないとわからないと思います。これはご自身の仕事でも同じだと思います。
柳生宗矩の書いたものを読んでも(『兵法截相心持乃事』改訂 史料 柳生新陰流 上巻)、どちらかというと相手に形通りに打ち込ませてというよりは、どのようにきても、それをどう考えてどう処したらいいのかを事細かに書いています。この文書は元和7年 (1621年) に家光の兵法指南役に就任して、元和9年2月2日の日付であるため、稽古の時に家光から聞かれたことをいちいち答えて回答したことを書き上げて上申したと推測されます。たとえばどのように相手が構えても、こちらは左足前の半身か、真向正面を向いてか、右足前の片身か、その3つでよいと言っています。うちなら八点と左右の十時足です。そのような構えから、相手はどのように打ち込んでくるのか、いろいろあるだろうが・・・こういう場合はこう (「うちいだすところをうつか、うちいださぬものには、しかけてうつところをかつか、それをしるものにはわがうちを見せてそれをうつところをうつか、これ三つなり」) ・・・という形です。ということは、実際の立ち合いではもっといろいろな場合を教えているはずです。まとめるとこうなると言っています。
戦場に出れば相手は何流かわかりないし、持っている刀の長さも違う。全くの素人でむちゃくちゃしてくるかもしれない。それでも勝たなければいけないので、形を稽古するというよりも、いろいろな打ち込み (つまり、相手がどのようにこちらへ近づくか) をある程度類型化して教えていきます。そのような対処ができるようになっても、それだけでは雲をつかむようになってしまうので、最後にまとめるとこのようなこと(形)になって、それはここが大切とキモ (肝要・〇〇の大事) の部分を口伝で伝えて強調する。「太刀かまへをならい、そればかりをよきと存、はやかつとばかりこころにおもひ、てきにしたがわず、わが心ばかりにてうつ事を当流には、ひが事とあひきわめ候事」とは、習ったことを自分の都合で相手に押し付けてこうなるべきだと勘違いすることは間違いだということです。打ってくるのは相手です。近づいてくるのは相手です。その相手の心 (打ちたい、勝ちたいという欲望・欲求・衝動) をまず心の下づくりをしてよくよく見て従うことが大切だと強調しています。形ではなく、戦場でおこる実際のことを想定しています。たまたま弱い相手だけに勝てるだけの方法に身を任すわけにいかないです。できるだけ確実に勝つ方法を教えています。このような教え方が昔ながらの方法です。
でも考えてみると、これは皆さんの仕事でも同じかもしれません。私の場合も私が知っていること、教わったことを自分の意見として患者さんに押し付けるのではなく、患者さんの望みをかなえられるようにと動かなければいい医療は成り立ちません。「塩のとりすぎです。〇g以下に下げてください」ではまずいです。まずどうしたら減らせるかのガイダンスを聞きたい方もいらっしゃいますし、自分ではこうしたけどうまくいかないとか、この場合はどうなのかとか、聞きたいことはさまざまです。それに対していろいろなパターンを用意してお答えします。そのためには心を澄まして聞く、見るということがないとうまくいきません。
柳生心眼流も同じようなところがあります。初めから「形」として教わった方もいらっしゃるかとは思いますが、私は武器術に入っては初めに砕きをよく教わりました。それをまとめるとおよそこうなるという形で進んでいきました。ですので七箇条といってもおよその数です。実際にはもっとあります。習った通りにお伝えするしかないものです。
50) 柳生心眼流の免許体系42 秘するはしらせむがため その2
武道を後輩の方々に伝えていくときも同じです。先生は「本当は基本二十一箇条でいいものを、切紙だ目録だと区別を作っているだけだ」とおっしゃっていました。そういわれても分からない方にとってはなんか腑に落ちないところでした。
しかし今は先生のお気持ちがわかります。混乱するので最初はしないようにはしていますが、いろいろ経験してくるとその人に合った方法があることがわかってきます。同じようにしても同じようには理解していただけないです。武器術、柔術、立合、坐取、興味を持つところも門人の方々お一人お一人が違うわけで、こちらが覚えてほしいと思うところもありますが、まずはその方が興味をもって楽しく稽古できるように工夫しています。たしかに基本二十一箇条や伝授の形はある程度決まったものがありますが、奥に行けばどこから入るかはその方と相対して、その方の受け取りをみて進めていくことになります。年齢的な要素もあります。若い方ならある程度力強い動きや柔術の受け身などもできますし、できだけしていただきたいと思っています。しかしある程度の年齢になった方では無理ということもあります。体の柔らかい方、固い方、また加齢により関節の固くなってきている方など、人それぞれ。同じようには教えられないのです。
私の場合も一般用皆伝が先で小具足が後でした。技だけで言えば切紙の時には表皆伝の技も教えていただいていましたし、相当上の技もそういうことは全く言わないで見せていただいたこともしばしばでした。こういうことは後からわかります。先生は私に合った方法を考えてくださったものと理解しています。
現代の社会では皆と同じでないと不安を覚える方がいますが、そうであれば別のカリキュラムをもつところで学んだ方がいいです。いかに短期間で質の高い効果的な教育をするか。それは教育の手法そのものですので教育学分野でしきりに検討されていることです。こういうことは時代が新しくなるほど効果的に教える方法が出てます。他流のシステムを見てすばらしいなと感じることもあります。現代武道のように、ルールを決めて試合を行う中で自分の極限まで高めていく、それもすばらしい方法だと思います。
うちの流派についていえば、かなり古い時代の習慣を残しているのでどうしてもオーダーメイドなところがあります。そもそも柳生石舟斎が門人に与えた目録も人により内容は異なっています。宗矩のもとにもいろいろな人が集まって指導をうけ、新陰流をついだ人もいれば、それぞれの流派を起こした人もいます。流祖の弟子もそれぞれ流名や箇条が異なっていました。そういう方法で伝わってきています。それはそれでよいところもあります。自分にも合っていたと思いますし、そういう方法で育てていただいたことに感謝しています。
49) 柳生心眼流の免許体系41 秘するはしらせむがため その1
星国雄先生も「自分の流派では秘伝のものだったものが、他流ではそうでなかったり、順番が逆だったりする。つまり同じような技をみな持っているが、教える順番が違う」とおっしゃっていました。これはとても大切な教えです。同じ内容でもどう教えたらいいかという先師様方の腐心がそれぞれの流派のカリキュラムになっているということです。
柳生宗矩は『兵法家伝書』で「この三巻にしるすは家を出でざる書也。しかあれど、道は秘するにあらず。秘するはしらせむが為也。しらせざれば書なきに同じ。子孫よくこれを思へ」と言っています。秘することにより、つまり段階をつけることによって人はさらに奥に進もうと思うし、自分を奮い立たせることができます。秘伝とはそういうものです。伝えるため、教えるために段階を設けているのです。当然、必要な水準に届かない方には伝えません。武道だけでなく世の中の資格試験もそのようになっています。
仏教でも人を悟りに向かわせるためにいろいろな手段を作ります。これは仏様に「一切衆生に幸せになってほしい」という願いがあるからです。これを善巧方便とか、施設と仮設とかいいます。八万四千の法門というくらいろいろな方法や道があるといわれています。実際にはその人ごとにあるといってもいいので、これでは済まないことになります。「分け登るふもとの道は多けれど、同じ雲井の月を見るかな」というのはもともとはこのことを言っています。それどころか、万法、自然、ありとあらゆる存在、あらゆる機会を通して仏様が法を説いているという見方にもなっていきます。
兵法では策 (はかりごと)ともいいます。柳生宗矩は「運籌帷幄中 (はかりごとを帷幄中にめぐらす)」といっています。確かにいろいろなはかりごとをめぐらすのですが、目的は「負けぬ術を存じ居る」ということですし、もっと根本には自分も他人も安心して生きていけるようにするということが最終的な目標になります。徳川家康の旗印は「厭離穢土、欣求浄土」で、それは地上に浄土のような幸せな世界を作る、そのために自ら苦難の中で腐心するという意味であったことは皆さんもご存じのことと思います。自分のために嘘をいって相手をだまし打ち負かし、すべてを取り上げることではありません。自分ができることは限られているのですが、自分もその一端の責任を負うことが求められます。
このことはうちでは「野中幕」というところで示されていいます。幕とは仮に作るもの、現すものという意味です。これはもちろん武術的な意味合いもあり、荒っぽいことが行われた時代には星国雄先生も実際これを使って窮地を逃れたりしています。しかしこれはまた生き方でもあります。
現代の情報化社会でもわたしたちはいろいろなフェイク情報や危ない情報に遭いながら、それをかわして自分にとって意味のある情報をつかみとることを無意識にしていると思います。まずはかわす。スルーする。適切な安全な場所に自分を置く。つねに見張って有意な情報を見定める。これは武道の考え方と同じです。そして、さらに世の中に自分からアプローチしてさまざまな情報発信をしようとすれば、自分でサイトのイメージをつくり、どういったら理解してもらえるか、どう表現したらわかりやすいかなどを誰しも考えると思います。これが野中に幕を張るということです。このときも、画像にしても文章にしてもいろいろなテクニックや人を引き付けるような表現をするかもしれませんが、心の奥底にはやはり何か大切なものがないといけません。そういうことが分かったら武道の心も分かっていただけると思います。
48) 柳生心眼流の免許体系40 三年父の道を改むるなき
禅宗では師匠から認められて嗣法しても、さらに修行を重ねるのだそうです。このことを「聖胎長養」といいます。大徳寺を開いた宗峰妙超禅師 (大燈国師) は師である南浦紹明 (大応国師) から頂いた公安を透過して印可を得て嗣法しますが、その後師の指示により20年乞食行を続けました。花園天皇は禅師を召し出そうと勅命を発しますが、五条橋のたもとで役人が禅師を探しますが見つかりません。禅師は瓜が好きということで、役人は一計を案じ、瓜を置いて「脚無くして来たれ」と言わせたそうです。そうすると、乞食の一人が「手無くして渡せ」と応じたので、禅師とわかったというのです。亡くなる前に遺偈で「截断仏祖 吹毛常磨 機輪転処 虚空咬牙」という言葉を遺されています。
そのお弟子で妙心寺の開いた関山慧玄禅師も、師である大燈国師から印可をいただいた後に9年間隠棲しました。「関山が這裡に生死なし」ということばを発した方です。亡くなる時に旅に出る格好をして庭に出て、お弟子に遺誡して立ったまま息を引きとりました。これを立亡といいます。ともに臨済禅の厳しい宗風を示すとともに、いかに修行を続けていくことが大切かということも受け取ることができると思います。この流れは厳格な宗風で「応燈関」と言われています。今日本にある臨済宗はみなその流れです。柳生宗矩に禅を説いた沢庵和尚も大燈国師の流れに属します。
曹洞宗でも『宝鏡三昧』に「潜行密用は愚のごとく魯の如し。ただ相続するを主中の主と名づく」という言葉があります。外には見えないようにしながら、でも修行を続けていくことの大切さを説いています。
『論語』には「三年父の道を改むる無きは孝と謂うべし」(三年無改於父之道可謂孝矣 学而第一) とあります。昔から先代の方法を急に変えないという伝統があったようです。
先生が亡くなった翌年に星裕文総本部長と一緒に厳島神社の奉納演武に行ったときに、楊心流薙刀術の小山宜子先生から「あなたたちの先輩方の立場があるから、代を継いでも3年は今のやり方を変えてはいけない」とアドバイスをいただきました。論語の言葉を思い出し大変ありがたかったです。
私も流儀内では自分が星国雄先生の唯授一人であることは話していましたし、一関総本部や各支部ではわかっているのですが、他流の方にはあまり公にはしていませんでした。古武道振興会の先生方の前で公然とお話ししたのは先生が亡くなってから8年後でした。柳生耕一先生からは「まず基礎体力を養うのがいいでしょう」とアドバイスをいただき門人の方々を育てるために心血を注いできました。
島津先生が亡くなりインターネット環境も大きく変わり不確かな情報が入り乱れると、流儀もなにやら別の方向に行きかねない状況にあって、やはり流儀のことについては言わなければならないという思いに至りました。どなたか言っていただければそれでいいのですが。星国雄先生や星家の伝についてしっかり正しいところを言っていただけるなら私は安心して何も言いません。もともそのように先生に申し上げていました。「私は埼玉に帰っておとなしくしています」と。でもそうはいかないようです。いろいろな考え方があることは承知しておりますが、師伝としていただいた考え方、立場をもとにこの流儀について歴史史料も参照して情報発信しています。伝書で言えば「先師の流論をもってまさに相究むべく候」ということを実践しているということです。
47) 柳生心眼流の免許体系38 技はそれでいいが心が悪い
これは星国雄先生から伺ったことです。相伝稽古を終えた時に、星彦十郎先生が星国雄先生に「技はそれでいい。だが心が悪い。だからお前は相伝許されたことを10年間黙っていろ」と言われたそうです。私は「自分から教えられただけで十分理解もできていないうちに軽々しく物をいうな」ということを教えたのだと思っています。先輩たちの面目をつぶさないためという配慮もあったと思います。先生はこの言葉を守って10年相伝を許されたことを黙っていました。うちにはこういう伝統があります。
相沢東軒は京都の人でしたが、おそらく江戸で医学の勉強をしている間に小山左門に出会い東北までついて行きました。いかに小山左門がすばらしい先生だったかと思います。小山左門はしかし簡単には許しませんでした。皆伝も少しずつ慎重に教え、3段階に分けて (つまり3回) 許したと伝えられています。3度目が相伝です。このくらい慎重でした。相沢東軒も小山左門の唯授一人でしたが当時は桃生に大先生方がいらしたので、桃生には入らず佐沼に居をおいたとのことです。桃生の『師弟合祀碑』には当時小山左門は在世でしたが名前は見えませんし、相沢東軒の名前もありません。でもその流れは今日まで続いているのです。
星清右衛門は叔父の星貞吉をさしおいて加藤権蔵から相伝を伝えられましたが、そのことをほとんど他に話すことなくずっと貞吉の師範代を続けました。ですので星貞吉が相伝者でないことは知らない人が多いと思います。私達一関総本部所属の者もかなりあとになってから星国雄先生から聞かされて大変驚いたことを覚えています。
これはなにも唯授一人、一子相伝という立場でなくても同じです。皆伝を受けたならこの必ずこの期間をとる必要があります。今は情報が速いので、誰がどの免許ということはわかるし、また誤情報を防ぐために話さざるを得ない状況ではありますが、それでもじっくり時間をとって自分の考え方を考え整理する修行は必要です。
皆伝を受けて、自分はどうするのか、どうしたらいいのか。ここまで来たら「自分が」ではありません。「皆が」を考えることです。これは自分を押し殺すということではないです。自分は皆の一部です。皆と自分はいつも一緒です。皆は自分の一部でもあります。
そう思えればどうしたらいいか、自分に何ができるかを考えていくことができるようになります。星国雄先生は「我も人、彼も人」とおっしゃっていました。同じ喜怒哀楽の身と心をもつ人。人により考えは様々だと思います。あなたはどうするのか。それを神仏が見ています。少しずつ考えながら、少しずつ積み重ねていくのは皆伝を受ける前も受けた後もかわることはありません。でも考え続けていると結局みな同じようなことを考えていたりするのです。星国雄先生は相伝を受けてから、自分でどうしたらいいかわからず、終戦直後の永平寺にいって草取りの作務をしながらいろいろと考えたそうです。永平寺も終戦の混乱期でほんの一瞬、草ぼうぼうの時があったそうです。
佐藤輝男先生は星国雄先生の一番弟子であり、皆伝者の筆頭でしたが自分を出すことなく常に「星先生、星先生」と師匠を立てていらっしゃいました。問われなければご自身から話すということはあまりありませんでした。南方の皆伝の先生方も三者三様で佐藤永一先生のように表に立って様々な活動をした先生もいらっしゃいますし、小野寺肇先生や佐藤清光先生のように一歩引いて、でもいつも星国雄先生を支えてくださった先生方もいらっしゃいます。星憲明先生は佐藤永一先生から皆伝を許されましたが、ずっと師である永一先生やもともとの師である星国雄先生を立て支えていらっしゃいました。
