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27) 柳生心眼流の免許体系19 伝書研究の落とし穴 その1
口伝では流祖は門人の機根や好み、興味によって教えることを変えたといいます。仏教ではお釈迦様の時代から対機説法と言って、その人の悩みや求めに応じて、必要な法を説きました。流祖もすべての人に同じ形の習得を強い、同じ技術を教えるということはしませんでした。流祖はいろいろな武器術の使い方を知っていたでしょうが、柔術を求める人に無理に剣術を教える必要はありませんし、剣術を求める方に無理に槍を教える必要もないです。時代背景から考えれば農民は剣術を習うことは難しかったはずです。しかし自衛手段は必要ですので、それに必要な技ということになります。ですので、もともとそのような教授法だったのです。流祖の門人でも流名 (例えば「柳生心眼流剣術」とか、「柳生心眼流槍術」とか、「柳生心眼流柔術」でしょうか) はさまざま、箇条数もさまざまだったけれども、その身の動きは皆同じだったと二代が述べています。江戸時代寛政年間の伊達藩の調書にも柳生心眼流は3か所に出ていて、それぞれ伝える内容が異なっています。これは担当者が上申したものでありしかも抜き書きですので、実際にはもっといろいろ違う流れが存在していたと考えられます。
私もいろいろと技をいただいていると教えるのも大変ですし、稽古道具や演武に必要な甲冑や道具を用意するのはかなり大変な作業です。その方が柔術だけで十分というならそのような教え方をしてもよいと思っています。その人一人ひとりは自分の身が守れればいいことです。それなら目録か甲冑免許くらいで十分ですし、全員が師範になる必要もありません。
したがって柳生心眼流の伝書は初めはだいたい同じなのですが、奥に行くとその人に伝えた内容によって大きく変わります。ただこのためにいろいろなことが混乱しているのも事実です。ここは今までの歴史を考えながら私なりの書き方をしているところもあります。
もともとあるものでも一部しかかいてありません。そこから何項目かを選んで書いて、あとは口伝します。別の方への伝書では別の項目の組み合わせになっていたりします。流儀の内容を変えたり革新しているわけではないのですが、それがわからない方は時代によって変化したとか、発展したとか解釈してしまう可能性があります。師匠が「この方にはこういうことが大切だ」と考えて詳細に稽古し教えた項目が重点的に書かれているはずです。つまり師匠の思いが現れているのです。これはとても大切です。これが分からないと師匠の心が受け取れないからです。このほかにも師匠の思いを伝える方法がいろいろありますが、これは口外しない方がいいのでここでは書きません。
26) 柳生心眼流の免許体系18 流儀には流儀の伝書の書き方、伝え方がある
武道をなさらない方に「柳生心眼流ってなにがあるのですか」と聞かれて、「うーん、いろいろあります」と答えるしかない感じです。柔術もあり、武器術もあり、剣だけでも大刀、中刀、小刀、鎧通などかなりたくさんあります。立合も居合もあります。棒も三尺棒、六尺棒など。甲冑着た技もあるし、素肌の技もある。これは彦十郎先生の書かれた「相伝目録」にある通りです。ほかに槍とか薙刀とか、十手、手ノ内など・・稽古道具作るのが大変です。結構書物に書かれているもの以外もあります。これは他流もそうだといわれたことがあります。ただ、私は他流の事はあまりわからないので証明もできないのですが・・・
柳生心眼流の伝書というのは、昔から項目だけ書いて、内容は詳しく書かないのが一般的です。背景には「伝書はいつか外に出て人に読まれるもの」という基本的な了解があるため、必ずしも本当のことを書いていないことがあります。わざと抜いてあったり、順番を変えたり、字を変えたり、左右を逆にしたり。本当の事は口伝で伝えるという伝統があります。古武道ですのでかなり秘密主義です。こういうことがあるため、柳生心眼流の伝書を研究するときはそのままで受け取ってはいけないのです。どういうふうに伝書から情報を読み取っていくのかが大切です。このため甲冑免許くらいからはいろいろな伝書を見ながら先生が解説してくださいます。うちの流儀にはうちの流儀の伝書の書き方や伝え方があるからです。それを受けない方がいろいろと単に文字づらだけを見て考えると、いろいろと変なことになります。
伝授では口伝が大切です。これがないと読めないです、それどころか巻物に添う口伝というのもあって、これは当然もらった人しか伝えられません。こういうことは稽古しているうちにだんだんに伝えられていくものです。よく先生の話を聞いている人は伝書をみれば、ああ、これのことかとわかります。だから稽古に参加して先生の話をよく聞くことが大切なのです。仏教でも聞思修といいますが、武道もその通りで、まずよく聞き習い、自分なりにいろいろな角度から検討しつつまた聞いて、稽古を重ねていきます。同じことを聞いてさえ正しく理解する人、間違って理解する人はいます。これは世間一般と同じです。その人が正しく理解できているかも指導する側は確かめなければいけません。正しく理解できているかは問題を出して答えていただければわかります。これも世間一般と同じです。わかったような顔をしていても、口に出して、あるいは動いていただければ理解度はわかります。こういうことも禅の問答と似ているところがあります。このようにして心が育つといいます。すこしずつ育っていくのを確かめながら口伝していきます。本当の理解は一朝一夕では難しいです。星国雄宗家は「待つのはつらい」とおっしゃっていました。でも彦十郎先生には「なんでもちゃんちゃんと教えるものではない」とおこられたことがあったそうです。わかっていただこうとすれば、師匠が何度も説明を繰り返します。弟子が何度も質問を繰り返します。私も先生にはいろいろと質問しましたし、先生も異なる機会に何回も説明してくださいました。そうして、なるべく間違いのない理解、正解に近づくように努めて慎重に伝えていくのです。
25) 柳生心眼流の免許体系17 星国雄先生の知識は他の師範を圧倒
私が始めたころに、仙台柳心会に師範代としてたくさんの師範がいらしていました。ある師範が、私に「自分は全部知っているし星さんに教えてもらうものは一つもない。本当のことが知りたいなら俺の弟子になれ。」といっていた方がいらっしゃいました。こういう方、結構いらっしゃいます。人の門人に声をかけて自分の方に誘導する。
そういう方について行った方々もいたのですが、私はついていきませんでした。星国雄先生以外に宗家などありえなかったからです。なぜ他の方がついて行ったのか不思議です。島津兼治先生もずっと星先生についていましたので「星先生以外に宗家なんかいるわけないよ」とおっしゃっていました。そのくらい柳生心眼流の知識が膨大で他の師範を圧倒していました。そういうことってわからないのかなと思います。私はわかりましたが。背景を知っていて話さないのと、知らないから出てこないとか、作った話をするのとはある程度お付き合いしていればわかりますよね。
私がついたのが先生74歳だったのでいつ亡くなるかわからないし、そうだからこそこの一代の名人の先生について教えをいただけば、人生にといって有意義なものになるだろうという思いがありました。
ですのであのころは数年も先生につければという気持ちでした。自分が柳生心眼流を続けると思っていなかったですし、皆伝など思いもよらなかったです。でもありがたいことに18年も師事することができました。そのおかげで膨大な技や教えをいただきましたし、心法の部分をまとめた『拳心斎先生口述聞書』の上中下3巻だけでも相当の量になります。最後まで星裕文総本部長に相伝をと申し上げていたので、なぜ自分に思うところもあるのですが、任された以上は報恩行としてできるだけのことをする覚悟でしています。
星彦十郎先生は星国雄先生に相伝するときに、どの師範にどのくらい教えているかは口伝していますので、どの流れにどのくらいの技がいっているということは口伝で残っています。従いましてそれ以外の技でその流れで新たに作ったものは〇〇師範が新たに形を作ったとはっきり表明していただいた方がいいと思います。門人を育てたいという目的で必要があって形を作るのですし、それはとても尊いものだと思います。武道も時代とともに必要なものが変わってくるので、私も必要によっては新しい形を作るかもしれません。理由を説明できればいいのだと思います。ただ、それを江戸時代の昔からと言われるとわからない方を迷わせることになります。
24) 柳生心眼流の免許体系16 武道は戈 (ほこ) を止める道
そのような流祖の生き方を二代は「水魚剣」の下に「鏡裏に物を照らすが如し」と著語して表しています。「物 (もの)」とは今の日本語では物質のように思ってしまいますが、別の意味もあります。物とは衆生、つまり生きとし生けるものという意味でもあるということです。仏教に詳しい方はご存じと思いますが、こういう用例はすでに古い中国の禅や浄土教の典籍にあります。もちろん日本にもあります。密教でも同様のことを指していたりします。衆生世間ともいいます。相手、すべての人々、世界を自分の心という鏡に映していくことをいいます。たとえ敵であっても。みな共に生きている。流祖の眼はいつもそのように世の中を見ていました。神仏が見ている。そうしたらあなたはどうするのか。それを問うています。二代はまた「実之人 (まことのひと)」に伝書を渡すようおっしゃっています。「小具足以上は口伝が多い」といわれますが、実はこういう話がたくさんあるのです。先生からお茶を飲みながらあるいは稽古への道すがらたくさんのお話をいただきます。
柳生心眼流兵法なら生きるためなら何でもします。しかし何をしてもいいわけではないです。彦十郎先生も「そこまでしなければ自分が負ける。しかし考えることだ」と示されています。星先生は「我も人、彼も人」とおっしゃっていました。
ここはとても難しいです。苦心することだといわれています。これが分からないと柳生の心もわかったことにならないし、柳生心眼流兵法の心法でもなくなってしまいます。正しい心に技を映す必要があります。同じ技もゆがんだ鏡、曇った鏡に映せば違うものが映ってしまいます。
兵法とは生きること、生活していくことです。共に。先に示したように石舟斎は「兵法の極意は五常の義に有とこころのおくに絶ずたしなめ」と詠んでいます。極意は「義」だと。星国雄先生は「武道は筋だ。筋を違えるな」とおっしゃっていました。
自分さえよければ他人はどうなってもいいということではないです。実権さえとってしまえばあとは師匠を横目に自分がしたいことをするなど問題外ですが、皆がよくなるには自分はどう動けばいいか、何を選択するか。それは大変なことです。完璧なのは神仏しかないでしょう。しかし先師様方も少しでもそうなるよう努めました。これは頭の中にある概念でも哲学でもないです。失敗もあるでしょう。自分で実践してその深さや困難さを思い知らされるものです。星宗家はたびたび「人を活かすことは難しい」とおっしゃっていました。この自我が自と他を区別しているぎりぎりのところの心法は本当に大切であり難しいのです。
もし柳生心眼流兵法に「勝つためなら何をしてもいい」という心法があるというなら、出典を示していただきたいです。どこにありますか? あるいは先師様方の言葉とか。言葉からそのような心が窺われますか? その心に技を映すとどういう行いが現れでるのでしょうか。いろいろと疑問がわきます。ぜひ示していただきたいです。
歴史的に見ても現在でも各所で言われているのは武道は殺し合いではなく、殺し合いを乗り越えるのが武道 (戈を止める道) と言われていると思いますがいかがでしょうか。
23) 柳生心眼流の免許体系15 何をしてもいいわけではない。
生きるためには何でもしなければならないです。好きなことばかりしていては生活費を稼ぐことはできないです。戦うときには方法も物資もなんでも使って全力で戦わなければなりません。しかしこれにはおのずと法 (法度) があります。
私が大学生のころ、ある柳生心眼流の師範が私にも他の学生にも言っていたのは「武道は殺し合いだ。殺し合いは勝てばいい。勝つためなら何をしてもいい。」ということでした。そういう先生には私は就きませんでした。ただ古武道界ではいろいろな考えの流祖様がいらっしゃるので、他流ではそういう主張の方もいらっしゃるかもしれないです。
さて、これは柳生心眼流の心法でしょうか。これを少し検討してみたいと思います。結論としては星国雄宗家もそのようなことはおっしゃったことを聞いたことがありません。歴代の先師様もそのようなことをおっしゃったという話も聞きません。
もともと柳生家は周りが大きな勢力に囲まれていましたから、道義に反するようなことをすればいつでもつぶされるという緊張感の上で、領地領民の安寧を守るにはどうしたらいいかを考え続けました。柳生石舟斎も仁義礼智信の大切さを説きました。まずは石舟斎兵法百首を参照してみます。
「兵法の極意は五常の義に有とこころのおくに絶ずたしなめ」
「兵法は弟子の心をさぐりみて極意はおろかにつたへはしすな」
「兵法のよう (用) をば内につつしみて礼義の二つに心みだすな」
「人をきらん心はしばし兵法にわれがうたれぬならひ (習) してまで」
「おんりゃう (温良) やけうけんしょう (恭謙譲) は新陰の兵法のはっと (法度) 極意成りけり」
「世をたもち国のまもりと成人 (なるひと) のこころに兵法使わぬはなし」
「兵法の師となるならば弟子にまずはっと (法度) ををしえ (教え) 心よくみよ」
「兵法師仁に心のなかりせばくらゐ (位) 上手のかひはあらじな」
「兵法の極意に仁義礼智信たへずたしなみ機遣をせよ」
「つねづねに五常 (仁義礼智信)の心なき人に家法の兵法印可許すな」
いずれも兵法に仁義礼智信の五常や温、良、恭、謙、譲などの徳目 (論語にあります) が心にあることが大切であることを指摘しています。戦乱の中で幾たびも出陣し戦地戦陣で過ごした人の到達点とはこういうことでした。何が大切かといえば、こういうことだと言わざるを得なかったわけです。
柳生宗矩は沢庵和尚に禅を学びながら「ちいさき兵法」から「大なる兵法」へ自分の心を変えていくよう説きました。「負けぬ術を存じ居る」とも言いました。柳生宗矩が徳川家康に仕えてからどれだけ国の安定のために無心の働きをしたかは皆さんもよくご存じのことと思います。
流儀の伝では流祖も「天地和合」とおっしゃいましたし、伝書には「弱くとも道あれば強きにまさる」とも書いてあります。道心こそ大切です。活人剣の心です。逆に「強くとも道なければ弱きに劣る」とも書いてあります。桃生の師弟合祀碑には流祖が「介于石 (かたきこと石のごとき)」、あるいは「言顧行 (言いて行いをかえりみる)」人だったと桃生の人々の間で伝わっていたというのです。介于石は易経の言葉で実直なこと、言顧行は中庸の言葉で自分の言ったことを自分自身がしっかり出来ているかをいつもおのれに問うことです。