ブログ

2025-08-18 23:04:00

22) 柳生心眼流の免許体系14 秉心塞淵

 小具足が難関ということに関連しますが、いろいろと見てきて入門から10年くらいで問題がおこることが多いです。私もそうでしたし他の方を見ていてもそうでした。習い始めて10年は誰にとっても長い時間です。そのあたりで我慢していたり疑問に思っていたことが噴出する。これはわかります。ただ実はここがいちばん大切なところ。実は自分との勝負。これははっきり伝書にも自分に勝てと書いてあります。エゴが立つと通り抜けられなくなる。素直に努力して積み重ねる。皆の中での自分の位置をしっかり把握して、全体が良い方向に向かいよう自分なりに進む。師匠がどうこうではないです。自分がどうあるか。

 江戸柳生から出た流派の伝書を読むと、心法のことがかなり深く掘り下げられています。武道修業は自分の心を顧みてコントロールすることがとても重要なようです。

ありがたいことに桃生の師弟合祀古碑には仙台藩の儒学者であった新井義路によって、流祖の言葉がたくさん書き残されています。父が耕せば子が種をまくように互いに協力すること (厥父菑子乃播)、仕事をしっかりしたうえで武道を学ぶこと (三時努農一時講武)、小欲であるべきこと (小不加大)、下剋上をしてはならないこと (賎不陵貴)、などが書いてあります。「礼は敬をもってす」(礼以敬) というのは礼の根本が相手へのリスペクトであること。これは礼記の言葉です。流祖は「皆重く敬して礼に中 (あた)れ」ともおっしゃっています。「心を秉 (りて淵を塞ぐ」(秉心塞淵)とは実直に積み重ねていくこと。これは詩経の言葉です。少しずつの水でも続けることによって徐々にたまっていって、ついには大きな淵になります。義路は四書五経や古い典籍の言葉を依用しているので流祖の言葉そのものか確定できないのですが、このような記述によって流祖がこの流派を学ぶ人に何を求めていたかを伺うことができます。師弟合祀碑の発起人である遠藤春良はこのような流祖の言葉を石に刻んで残すことで、後世の学人がこれを見て自ら励まし、流祖の願いに自分が適っているかどうかをいつも自分に問い続けてほしいと願ったとのことです。(後身観此自激励念不殞厥問)

 

奇しくも流祖の眠る桃生の林昌院の本堂には「功徳海中一滴も譲る可からず。善根山上に一塵も亦積むべきか。」(あふれるほどの福徳の海の中にあってもさらに1滴を加えることを躊躇してはならない。よいことは山ほど積んでもさらにもう1つ積むべきですという句が掲げられています。これは道元禅師のお言葉です。そのように日々行い続けること (日々の行持) が大切なことを禅師もおっしゃっています。

 

2025-08-12 22:37:00

21) 柳生心眼流の免許体系13  歴史を学び、思いを重ねる

7月に終戦80年の慰霊の旅に参加して沖縄に行ってきました。一同で慰霊塔に献花して、摩文仁の丘を歩いてきて、地元出身のガイドさんからいろいろなお話を伺いました。そのほかにも講和や神社の参拝を通じて、本当の沖縄の歴史に自分自身で触れることができました。あまりの酷さに嗚咽してしまったこともありました。とてもここで書けるような話ではありません。今でも不発弾がたくさん残っていて、完全に取り除くにはまだ大変長い時間がかかるようです。

歴史を勉強して思うのは、人間は同じことを繰り返してしまうものだということです。世の中は大きく変化していきますが、生物学的に、つまり人間という種の遺伝子が変化するしていく速度を考えれば45000千年前も今もあまりに変わっていないでしょう。

繰り返さないようにしなければならないです。そのためには過去から学んで問題点を考え研究し、いかに良い方向にもっていくかを工夫する積み重ねなのだと思います。状況も変わりますからいつになつても完ぺきということはないのでしょう。しかしつらくても目をそらさず対峙して考えていくしかないと思います。そしてその背景には知恵と思いやりが必要でしょう。これはどのような分野でもそうではないでしょうか。

柳生宗矩や流祖も本当にむごいこと、筆舌に尽くしがたいことが普通に起こる乱世をいやというほど見てきたはずです。それだからこそ「人よ幸せであれと」願う心が強かったでしょうし、そのために平和な世の中になっても残りの人生を平和を維持するために費やしたのだと思います。

2025-08-06 21:23:00

20) 柳生心眼流の免許体系12  師弟の信頼関係は大切

小具足はかなり難関です。歴代もここをどう進ませるか相当苦心があったようです。しかし、やはりこれはしょうがないのだと私も理解しています。私も進んでほしいのですが、手加減があると後世に悪い影響が出るので腹をくくってだめなものはだめと言っています。自分ができているかといわれれば不十分だとは思うのですが、そうなるよう努めながら役目としては評価役をしています。

古武道の世界は教わるものさえ教われば師匠を殺してでも自分が一番になりたいというということが起こり得ました。別のたとえで言えば親の財産管理の権限を渡されたとたんに親を粗末にする子供。今でも結構そういう方はいらっしゃいます。流儀内でもそんなことをたくさん見てきました。驚いたことにごく最近もありました。それがこのブログを始めるきっかけになりました。

でもそういうものだということはわかっているので、簡単にひっくり返されないように対策を講じています。星先生も「弟子に裏をとられるような教え方はしておかないんだ」とおっしゃっていました。

こういうことは「流儀の秘密」として口伝されます。たとえば甲冑や小具足も実は段階があります。こういうことは上の師範ならわかっています。誰にどくらい教えてあるか、どこに本伝の武器術が行っているか、技は教えても伝書は授与していないとか。こういうことは師範同士で情報をやり取りしていますので、流儀内でどのくらい誰が知っているのかはおのずとわかっています。それどころか、その方の動きを見れば柳生心眼流の場合は、だいたいどのくらいというのもわかってしまいます。その伝授を教わっていないから、その伝授を理解した身の動きになっていないのでわかってしまうのです。

これは、師範がどの団体に属しているとかいうものではなく、純粋に柳生心眼流という流儀としてのことです。

一般の社会でもこの人は教わるものさえ教わったら、ひっくり返すだろうなと感じる人に、そうそう大切なことを教える人はいないと思います。そうなんです。普通それが当たり前。だからそういう人がよい技や本式の伝授を教えてもらっているはががないということになります。

師弟は信頼関係で結ばれていないとだめなんです。そのうえで師匠も力の限り教え、弟子も師匠に全身でぶつかっていく。そして本当の心技が伝わっていきます。先生と喧嘩しますが、でも目指す方向は一緒です。よいものを伝えていくためには師弟お互いが信頼して努力しないと伝わらないのです。決して師匠も自分がえらくなりたいとかそういうことではないのです。

2025-07-28 22:45:00

19) 柳生心眼流の免許体系11   無刀が分かれば皆伝

しかしこの無刀はおよそのものです。なぜかというと、柳生心眼流兵法での無刀とは「人生を刀なしで行こう」という話だからです。だから「無刀がわかれば皆伝」という言葉もあります。「柳生心眼流の皆伝は無刀」ともいわれています。この無刀は技としていわれる無刀取だけでなく、それも含んだうえでもっと大きなことを言っています。これは伝書には水魚剣というところに著語 (コメント)して「鏡のなかにものが映っているようだ」(大意) と書いてあります。これは禅でいう天地いっぱいの命 (これを無心とも無ともいいます) の中で、生きとし生けるもの (一切衆生とか、有情といいます) が生かし生かされているという事実 (縁起とか諸法実相とかいいます) が心という鏡に映し出されているというのです。みんな一緒。少し難しいですね。併せて流祖は「天地和合」という言葉でも示したといいます。つまり皆がこの世界で生かし生かされているのです。それをわかったうえで、それを摩利支天様に見ていただいているうえで、あなたは何をするのか。ここは苦心して進むしかないです。あなたにしかわからないことです。もちろん兵法的な意味合いもあるのですが、それは立ち合いでの伝授です。

2025-07-21 23:20:00

18) 柳生心眼流の免許体系10  心のコントロール

  小具足では甲冑時代よりもっと精妙に運んでいくことを工夫します。技も状況次第。その場にふさわしい技にならなければならないです。ここらへんになると教えるというよりは自分なりの答えを出していただき、師匠が点検することになります。もちろんヒントは出したうえです。

このくらいになるとその人の深いところの心、とくに欲望が頭をもたげ始めます。いろいろな出方をします。私も何人もそういう方を見てきましたし、彦十郎先生の時代のお話もいろいろお聞きしました。まさに自我との勝負。10年前後でそういうことがおこることが多いように思います。習い始めて10年くらいのところは本人にとっても区切りの時期だし、迷いも多いのだと思います。

人の言葉を口パクしても許しません。わかっているようなふりをしても声に出して自分の言葉で答えなければ、またその身で実行しなければ合格点は出せません。その人の心の奥底からでる言葉、行動が今まで学んできた流儀の心技に一致しているのかが大切です。別の言葉では心法と刀法の一致、心刀一致です。ここになると禅について学んだり、古い時代の武道家の著書、うちなら柳生石州斎や柳生宗矩の伝書や逸話を学ぶべきです。

師匠の印鑑偽造や伝系の詐称は問題外ですが、俺が俺がもダメ。表では活人剣といいながら心の奥で別のことを望んでいるのもダメ。わからないのにわかっているふりをして話すのもダメ。多数派工作をしてもダメ。外見はへりくだっていて実は内には計算ずくもダメ。師匠の後ろに隠れるのもダメ。親子兄弟だからという甘えもダメ。自分はしないで人にさせるダメです。そういうのって武道家ですからお互い見たり話していればわかりますよね。

自分もあったように思います。先生ともけんかもしました。「もうやめます」と言いました。ですが先生は家族に「あいつは戻ってくる」と言っていたそうです。なぜ戻ろうと思ったのかわからないのですが、やはりこの武道が自分にとって必要不可欠だったのだと思います。自分の求めるものがそこにある。先生も何も言わないでいつものように迎えてくださいました。

1 2 3 4 5