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2026-09-16 22:08:00

74) 柳生心眼流の免許体系65  更に参ぜよ三十年

一関にいるころ、西光寺の佐藤太彦方丈様から「絵に描いたぼたもちの味はわからない」とお示しいただいたことがありました。また「梅干しも食べなければその酸っぱさはわからないが、一度食べるとその酸っぱさが思い出されて、見ただけでつばがでてくる」ともお話しいただきました。体験が大切だということです。

みなそうでしょうが仏教は頭でわかっただけではだめで、実際に修行し体験してはじめてわかることです。そして、それを積み重ねていく。一般社会でも知識がわかったレベルと、それが正しく実践される段階は違います。

食事療法もそうで、管理栄養士の栄養指導を1回受けて「よくわかりましたので次はいいです」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、1回きいてわかるわけありません。そんなこと私にもできません。専門家の栄養指導を受ける受けないは別にして、今はいろいろとアプリがあるので、ポイント (自分に合ったエネルギー量を、栄養素のバランスよく摂取する) がわかれば自分なりに勉強と実践を繰り返していくことがお勧めです。

いろいろな栄養素について知って、買う場合、・外食する場合・自分で作る場合で栄養バランスよくとる必要があります。栄養素の基本はタンパク質と炭水化物と油。それに繊維や塩、ビタミンなどの知識もほしい。物価も高くなるし、毎年作柄も変わるし、うちの菜園も今年はトマトがおいしく、ある年はジャガイモが豊作、ある年は玉ねぎが豊作。仕事が忙しいときもあれば、料理に時間をとれるときもあります。材料の知識や購入、調理方法、保存、作り置きなど実際にやろうとすれば結構大変です。学問的に確立していることもありますが、まだ確定していないことも多いです。そうなると自分の価値観や好みも大切にして、望ましいやり方を自分なりに作っていくことになります。こういうことをしっかりと、自分のできる範囲で無理なく、そして楽しんで取り組んでいくことです。回り道しているようでいても持続可能な実践ができるようになります。そのためにはまずやってみて、いろいろ質問して実践して、また質問と繰り返す必要があります。うまくいかない場合はどうしたらうまくいくか考える。ある程度わかれば、あとはうまくいかなかったり、迷ったりしたときだけ栄養指導を受ければいいし、ずっと使える知識です。

こういうことを飛ばして薬を使えば確かに薬のほうが一見有効率も高いですが、食事療法がうまくいっていないで、それを無理やり抑えるような薬の使い方をしていても期待した効果を得られないことが知られています。こういうのを潜在リスクといいます。たとえば塩をたくさん摂っていて血圧を下げる薬を飲んでも、効きが弱くなりますし、見た目は下がっていても実は臓器の血圧は下がっていなくて臓器障害は進んでしまいます。こういう落とし穴はたくさんあります。

武道も教えてもらったとか分かっているということだけでは不十分で、ずっと稽古を続けることでその真味を自分で味わうことになります。稽古によりやがてそれが味わい深い滋味となり、さらには没滋味 (滋味のないように見えて奥深い本当の意味の滋味、無駄のそぎ落とされた肝要) のものとなっていきます。うちの流れでは「また白い玉にもどっていく」と言われています。稽古して武道に関して何かがわかってうれしい楽しいのも大切ですが、さらに続けてしっかりと自分の人生になじませて、武道と意識するでもないところに武道が働いていかければなりません。これは自分で見つけ出していく作業です。

桃生の子弟合祀碑にある「秉心塞淵」(へいしんそくえん) もこの積み重ねを言っています。「あなたにだけ秘伝を教える」と言われて喜んでばかりいるようでは続かない世界です。こういうことばかりを求めていると、だんだんにそれがなければ続かなくなってしまいます。自分で壁を作っていることになります。そんなことばかり知っていても、いざという時にその方が如法に動いていけるかは甚だ疑問です。基礎が出来たらあるところからは自分の中を見つめていく作業になります。先生が何言っても「何言っているんだ」くらいでちょうどいいです。

昔本で読んだことがあるのですが、ある和尚さんが「坐禅して何になるのですか」と指導の先生に聞いたそうです。答えは「更に参ぜよ三十年」でした。答えていただいたので30年続けて、もう一回「三十年座禅しました。坐禅して何になりますか」お聞きしました。答えは「更に参ぜよ三十年」だったそうです。これって、もう聞くほうも答えはわかって質問している感じがします。どこまで行っても「更に参ぜよ三十年」。ずっと。扇であおぎ続ける。

古武道の世界でも何十年も道に精進されている師範の先生方がたくさんいらっしゃいます。そのような先生方からお話を伺うと本当にためになることが多いです。私も自分がどれだけ変化していけるのか勝負です。どこまでいけるかわかりませんがどういう世界なんだろうと思います。

星国雄先生は20代で相伝を許されてから90代で亡くなる1週間前まで道場に立たれました。おそらくあの世に行っても武道を続けていらっしゃるでしょうし、私たちを見守って下さっているでしょう。そして私たちの中には先生が亡くなってなお教えてくださった「法」がいきいきと活動しているのです。そのことが先師様方を通じて過去ずっと続いてきたわけですから、流祖の「法」が今生き生きと私たちに生き続けていることになります。彦十郎先生も「竹永隼人の技と心が今ここに伝わっている」とおっしゃいました。日ごろからしっかり稽古していればこの「法」を通して流祖の心にも参究することができます。そして知らぬうちにみな同じ月をみていることになります。

2026-09-08 23:47:00

73) 柳生心眼流の免許体系64 其の理を窮めつつ、只まっすぐに

令和895日は星彦十郎先生が昭和11年新田に柳生心眼流兵法柳心館本部を開いてから90周年にあたります。920日には新田で記念式典が行われます。

彦十郎先生と門人の方々のご努力により柳生心眼流兵法は広く伝えられました。新田柳心館には星家と地域の方々により活人剣の技と心が今日まで大切に守られてきました。私たちもその流れに属し恩恵をいただくものとしてここに心よりお祝いを申し上げ、新田柳心館宗家星徳一先生とその門人の方々のますますのご健勝とご活躍を祈念申し上げます。

 

前回からの続きです。

そのため沢庵禅師は修行者 (この書では兵法者) はその仏性とか、本心とか言っているものが何であるかを自分の心を通してしっかり見きわめなさいと。まさに禅。「一生参学の大事」「生死の因縁」「仏家一大事の因縁」とかいいます。臨済禅師は仏性を無位の真人とも表現していてそれは「あなたたちの面前で出入りしているからよく見なさい」とおっしゃいました。

沢庵禅師は「唯悟り得たる人のみ能く之を見るなり。其の見たる人を見性成仏の人と云ふ」(この本心が何者かを悟った人のみが見性成仏した人というのです。) と示しています。つまり自分にほんらいから備わる仏性・真我がどういうことなのかわかるということは、悟りそのものなので頑張れというわけです。ただし、かなり難しいと書いてあります。「此の拈華微笑の旨を得たる者は十万人中に一人も無きことなれども」です。しかし「若し最大乗の人ありて知らむと要せば、さらに参ぜよ三十年」と長い間修行していくことが大切だと言っています。

そして、ここが武道を稽古する者にとってもとても大切です。それのことが本当の意味でわかるためには「物語のうちにも、無言のうちにも」「茶を飲むうちにも飯を食ふうちも」「恒に自己に立ち返り、急に眼を着けて其の理を窮めつつ、只まっすぐに、是は是、非は非にして、それぞれの上に此の理を看よ」と。巻の最後には「此の剣の妙理を学する者はたやすく麤相なる観念をすることなく、高く精彩を励まし切に工夫を着けて片時も怠ること勿れ」といっています。これらは言葉通りに味わっていただくといいです。余計かもしれないですが分かりやすい言葉で言うと、「いつも自身の心を観察して、しっかりと集中してあっちからもこっちからも検討して、誠実に正面から向き合って、よいことはよい、悪いことは悪いと決断し、そのうえでその上に立ってこの「理」、つまりどういうことなのかを見つめなさい。」「この仏性のすばらしい仕組みを学ぼうとする人は、安易な結論に陥らないで、高みを目指していつも工夫して片時もおこたらないでください」と。ただ、私たちの流れは仕事と武道の二足のわらじですのでそれだけに熱中してしまうのはまずいです。ぜひお学業やお仕事を優先に。

そして、「教外別伝とは師の教への外に別に己が自悟自得せねばならぬ法なるぞ」とも示していて、その少し前には「此の真実の兵法は言辞にて語り伝ふべき様もなく、又法様とて個様に構えて何処を打てよなどと教へ習す様もなし」(この本当の兵法というのは言葉で伝えたり、形としてどのよう構えてここを打てなどと教えることはできない) と書いてあります。つまり、道場で稽古する技が剣術だったり棒術だったりしたからといって、いざ困難なことに遭ったときにどう動いていくのかということができなければ自分を救う真の兵法にはなりません。そういったときに自分を守ることが本当の兵法だからです。だから、本当の兵法は困難を乗り越えて「生きていく」ことです。これは自分の中に自分の努力で養うしかない力です.人の教え方が悪いではありません。

同じようなことを道元禅師もおっしゃっていて、『弁道話』で「この法は人々の分上にゆたかに豊かにそなはれりといへども、いまだ修せざるにあらはれず、証せざるにはうることなし(この法、つまり仏性は人それぞれの中に豊かに備わっているけれども、その人が修行しなければそれが現れてくることはないし、それが何であるかがわからなかったら自分のものになったということにはならない) と示されています.つまり自分で参究しなかったらわかりません。

道元禅師の書かれた『現成公案』では風 (心・仏性のたとえです) はどこでもめぐっていく性質を持っているけれども、扇であおがなければ風として現れないという麻浴禅師の公案を通してそのことを説明しています。その問答の最後に修行僧が「風の性質がすべての世界にいきわたっていて、いきわたっていないところがない (無処不周) とはどういうことですか」とお聞きしたところ、麻浴禅師はただ扇であおぐばかりだったそうです。ただあおぐ。それだけ。あおぎ続ける。ずっと。この故事を示してから道元禅師は「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。」として、これこそが大切なのだと。あおぎ続けることで「仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ(仏道を歩むひとりひとりの、今ここで仏性に支えられて起こしていく風が、つまり行いが、大地から黄金をとりだしてみせるように、この世の中に限りない尊い価値を生み出していく)とおっしゃっています。沢庵禅師の「妙用の力」「太阿の剣」です。

2026-09-01 23:29:00

72) 柳生心眼流の免許体系63  此の太阿の利剣、人々具足し箇々円成す

『太阿記』の中で『不動智神妙録』の本心と妄心のように「真我」と「人我」を持ちだして真我が大切なことを説明しようとします。ここでは『不動智神妙録』で「心」と提示していたものが、さらに具体的な形で「我」(「が」と読みます) と示されます。仏教的・哲学的なところもあり、初めの段階では「心」として説明したのでしょう。自分の「心」とは何かをある程度坐禅とかしてわかっていないと、何か別の何かと勘違いしてしまう可能性もあり、初めは「心」と説明していたのではないかと思います。

仏教の話になってしまいますが、すべての煩悩の根本は 「無明」(むみょう)といい、自己執着 (我執) のことです。つまり、自分を実体化し ()、自分のもの (我所) とそうでないものに区別し執着する働きからすべての煩悩が発しています。この「我」や我によって作られた自分の世界 (家、自分が作り上げた概念の世界) がなんたるかが本当にわかったときに、お釈迦様は「家を作る者よ、汝の正体は見破られた(法句経) とおっしゃいました。

「我」とはサンスクリット語のアートマンを訳した言葉ですが、ここでは普段私たちが「私」や「人」と思っているもの、あるいは思い込んでいるものと考えると分かりやすいと思います。沢庵禅師は『太阿記』で私、つまり我 ()、それには普段自分の思っている「私」(人我) とその奥底にある「私」(真我) 2つあるのだと言っています。つまりふたつの私。このうちの真我は仏性であると禅師は述べています。

真我の我とは天地未分已前、父母未生已前の我なり。此の我は、我にも鳥獣畜類草木一切の物にある我なり。即ち仏性と云ふもの是なり(真の我というときの我は、天地とか父母とか概念で考えている世界の奥底にある我であって、この我は私だけでなく鳥にも獣にも、家畜にも、草木にも一切の「物」にある我です。つまりは仏性といわれているものがこれです) とか、「此の我は影もなく、形もなく、生もなく死もなき我なり(この真我の私とは姿もなく、形もなく、生まれるということもなく、死ぬということもない私です)とか。つまり、『不動智神妙録』の本心に相当すると考えたらいいと思います。あまり言葉にとらわれないでください。

この本心、仏性を天下に比類ない名剣にたとえて太阿の利剣と示して、「此の太阿の利剣、人々具足し箇々円成す(この仏性というのは、ひとりとひとりが初めからもっているもので、また一つ一つがすべて完成している)とか、「是の心は生の時に生ずるに非ず。死の時に死する非ざるが故に本来の面目と云う」(この心 (本心、仏性) は人が生まれるときにできるものではない。人が死ぬとき一緒になくなるものでもないから、ずっと昔からある本当の顔ともいう) とか説明しています。

ここらへんは仏教そのものでとても難しいと思いますが、本心・真我・仏性は私たちが生まれる以前から死んだあとも、ずっと始めなく終わりなく続いているもので、仏性とも本来の面目ともいって、(私たちの流れの心・無心もこの意味を含みます) 私たちひとりひとりにはみな完全なものが備わっていると言っています。

この仏性は本当は誰かがどうにかしようとしても、どうにかなるものではない。「天も之を覆すこと能わず、地も之を載すること能わず、火も之を焼くこと能わず、水も之を湿すこと能わず、風も之を透すこと能はざるが故に」。つまりどうしようもない。龍樹は空であることの理解によってものを語る人に概念で論難してもどうすることもできないと言っていますし、臨済禅師は虚空にくぎは打てないといい、お寺には空の象徴として仏様を安置しているのだと瑩山禅師はおっしゃっています。

そして沢庵禅師によると、その仏性のはたらきは「彼の名剣の刃に障るものなきと一般なるが故にこの妙用の力を太阿の剣とは名づくるなり(あの名剣の刃にかかっては何でも切れてしまう (つまりとても固いものでも妨げられない、何によっても妨げられない、無制限) のと同じであるがために、この素晴らしい仏性の働きの力を太阿の剣と名付けるのだ)とのことです。

2026-08-25 23:06:00

71) 柳生心眼流の免許体系62  『太阿記』

本心と妄心の話を続けていきます。こういうことって、角度を変えて何回もきいているうちに、ああ、そうかとわかってきたりします。あまり一生懸命聞きすぎない方がいいかも。あまり難しいと思ったら、読み飛ばしていただいていいと思います。あるときふっとわかったりします。

『兵法家伝書』で、宗矩は「心に本心妄心とて二つあり。本心を得て本心の様になせば、一切の事すぐ也。本心、妄心におほわれて (覆われて) まがり (曲がり) けがれ (穢れ) ぬれば、一切のしわざ (仕業) まがりけがれぬる也。本心妄心とて、黒白なる物にならひて各々あるべきにあらず。本心と云は本来の面目、父母未生以前よりそなはりて (備わりて) かたち (形な) ければ生ずると云事なし。滅する事なし。」と説明しています。

現代語にわかりやすく変換すると、「心には本心と妄心との2つの心があります。本心というものが分かって本心にしたがって生きるようになれば、すべてのことがまっすぐです。本心が妄心におおわれてしまって、曲がったりよごれてしまえば、することはみなよごれてしまいます。本心とか妄心とかいつても、白い色した心と黒い色した心が物のように存在しているわけではありません。本心というのは本来の面目といわれたりする心で、両親が私が生まれたことにより父母となる前から (つまりこの世に私が生まれる前から) 私に備わっている心で、形もなければあるところで生じたということもありません。そうですから、あるところから滅するということもありません」

自分だけで生きるためなら周囲はどうなってもいいというのは「我」の極端な形で、そこまでいかなくとも人は自分にとって損か得かということをある程度量って生きているのが世俗です。もちろん私もそうです。我は捨てられないし、生きる以上捨ててはいけないです。そういったところで働いている心は「妄心」 (自己を中心とした概念・区別の世界) と呼ばれます。ある意味で私たちは妄心のかたまり。

真面目に生きているのに妄心とはなんだと怒らないでください。仏教はよく2つに分けます。今は2つに分類して考えているということなんです。色 (「しき」と読みます。物質的なもの)と心、世俗諦と勝義諦、色身と法身、慈悲と智慧、衆生と仏とか。そして基本的にその2つは左手と右手を合わせたときのように不即不離の関係 (不二) にあることが多いです。

別の話かもしれませんが私たちの流れでも表と裏は不即不離です。伝書で文字がかいてある表と真っ白な裏がありますが、まさに紙の表と裏の構造になっています。表の技と裏の技は両者が密接に結びつかないといけません。独立に両者があるわけではありません。どう結び付けていくか、こういうところをしっかりとわかっていくことが稽古です。

さて、沢庵禅師は『不動智神妙録』より後、晩年近くになって『太阿記』というのを書いていています。学問的に確定しているのかわからないのですが最近ではこれも宗矩や家光のために書いたという理解になっているようです。

『太阿記』は武道というよりは禅的な仕様になっています。ある程度武道や仏教の基礎が分かった方向け。少し難解な書になっていて漢文だけでは難しいと思ったのか、自注 (自分で書いた論書に、自分で注釈をつける) として解説を付けています。武道の解説というよりは武や剣、勝負という、当時の武士が関心を持ちそうな話題や言葉から入って、禅の奥深いところに導こうとする意図がうかがわれます。ですので武道に入ったばかりの方が初めて手に取るにはかなり難易度高いです。ただ宗矩に示されたということであれば、ある程度武道が分かった来た方向けに少し触れておいた方がよいと思われます。

2026-08-11 00:31:00

70) 柳生心眼流の免許体系61  本当は自分は何をしたいのか

こういうことは龍樹の『中論』にいろいろな角度から詳しく考察されています。中論の冒頭に帰敬偈 (ききょうげ) というのがあって、「滅するのでもなく、生まれるのでもなく、途切れるのでもなく、ずっとあり続けるのでもなく、同じ (一緒) でもなく、異なる (別々) のでもなく、行くでもなく、来るでもないという縁起を、ある方 (お釈迦様) が説かれた。戯論 (概念・思考の空回り) を鎮める吉祥である仏の教説の中でも第一であるそのようなものに礼拝します」と書かれていて、これが中論の貫通するテーマになっています。(羅什訳中論では「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不多 不来亦不出 能説是因縁 善滅諸戯論 我稽首礼仏 所説中第一」) 以後のたくさんの偈文で龍樹はくりかえし概念の作り出すトラップに「あなたはそう思っているのでしょうが、本当にそう言うことができますか?」という雰囲気で問いかけます。龍樹はそれに対していろいろと検討を加えます。結果的にはその区切りや概念 (戯論) を作っているものの正体は自分という虚構 (我、妄心) であることに気づきます。

人は01か。自分とそれ以外。あるところから区切って区別して思考する、そういう2値の思考をしてしまいがちです。統計でもよく使います。これは判断にはいいです。わかりやすいです。これは生物が生き残るために獲得した、もっとも生存とリンクする本能かもしれないです。その判断ができなければ、種として生き残っていくことは難しいでしょう。とても大切な本能ですが、うまくいかなくなってくると問題を生じます。たいていは自我意識が亢進して自分を守ろうとするあまり、たとえば不要な攻撃をしてしまったり、怖くて体が動かなくなってしまったりします。

本当の自分は本心ですが、普段は妄心があまりにも親しいので妄心はあたかも自分であるかのごとくふるまいます。「そういえば、あのとき・・・」「あの人はこんなことを・・・」「どうして私は・・・」などなど。しかしこれは本当の自分ではない。「思考」「情動」でありいわば脳のおしゃべり。人生がうまくいかなくなったときにこのことが分かっていないと、自分を追い込んで本当に危険なことになります。人に向けた攻撃の矢は自分にも向かっているのです。そういう自分を観察しているもう一つの自分がいる。こういうことが分かっていくのを最近の心理学ではメタ認知といいます。第三世代の認知行動療法の「マインドフルネス瞑想」では、普段は本当の私 (全く一緒ではないのですが、ここではわかりやすく本心と同じと考えてください) と虚構の私 (妄心) が一体になっていて、「刺激→思考→衝動」が一瞬におこっているものを一つ一つ分けて分析していくことで、これは「刺激」だ、これは「思考」だ、これは「衝動」とわかっていきます。こういうのを「ラベリング」といいます。結果この2人の自分を分けて考えられる能力を培います。

人生がうまくいっているときはわからないのですが、何かのきっかけでうまくいかなくなると、人は自分の生みだす概念によって苦しみます。そうではない、そう苦しまなくていいというのが空のメッセージの1つでもあります。本当はどうなのか。自分は生きたい心、幸せになりたい心がある。星宗家は「そのときなんだ。自分が本当にしたいのは何なのかよく考えることだ」とおっしゃっていました。頭のぐるぐるに惑わされずに心の底から自分の本当の願い、何をすべきなのかに気づいていく。人生は幸せな時も大変な時もある。大切なのはそこの場で何を学び、何を得ていくのかということです。苦しみが幸せの原因になっていく。号泣し慟哭するような悲しみにあってさえ、そこから何を学ぶかによって人はよい方向に変わっていくことができます。

 

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