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48) 柳生心眼流の免許体系40 三年父の道を改むるなき
禅宗では師匠から認められて嗣法しても、さらに修行を重ねるのだそうです。このことを「聖胎長養」といいます。大徳寺を開いた宗峰妙超禅師 (大燈国師) は師である南浦紹明 (大応国師) から頂いた公安を透過して印可を得て嗣法しますが、その後師の指示により20年乞食行を続けました。花園天皇は禅師を召し出そうと勅命を発しますが、五条橋のたもとで役人が禅師を探しますが見つかりません。禅師は瓜が好きということで、役人は一計を案じ、瓜を置いて「脚無くして来たれ」と言わせたそうです。そうすると、乞食の一人が「手無くして渡せ」と応じたので、禅師とわかったというのです。亡くなる前に遺偈で「截断仏祖 吹毛常磨 機輪転処 虚空咬牙」という言葉を遺されています。
そのお弟子で妙心寺の開いた関山慧玄禅師も、師である大燈国師から印可をいただいた後に9年間隠棲しました。「関山が這裡に生死なし」ということばを発した方です。亡くなる時に旅に出る格好をして庭に出て、お弟子に遺誡して立ったまま息を引きとりました。これを立亡といいます。ともに臨済禅の厳しい宗風を示すとともに、いかに修行を続けていくことが大切かということも受け取ることができると思います。この流れは厳格な宗風で「応燈関」と言われています。今日本にある臨済宗はみなその流れです。柳生宗矩に禅を説いた沢庵和尚も大燈国師の流れに属します。
曹洞宗でも『宝鏡三昧』に「潜行密用は愚のごとく魯の如し。ただ相続するを主中の主と名づく」という言葉があります。外には見えないようにしながら、でも修行を続けていくことの大切さを説いています。
『論語』には「三年父の道を改むる無きは孝と謂うべし」(三年無改於父之道可謂孝矣 学而第一) とあります。昔から先代の方法を急に変えないという伝統があったようです。
先生が亡くなった翌年に星裕文総本部長と一緒に厳島神社の奉納演武に行ったときに、楊心流薙刀術の小山宜子先生から「あなたたちの先輩方の立場があるから、代を継いでも3年は今のやり方を変えてはいけない」とアドバイスをいただきました。論語の言葉を思い出し大変ありがたかったです。
私も流儀内では自分が星国雄先生の唯授一人であることは話していましたし、一関総本部や各支部ではわかっているのですが、他流の方にはあまり公にはしていませんでした。古武道振興会の先生方の前で公然とお話ししたのは先生が亡くなってから8年後でした。柳生耕一先生からは「まず基礎体力を養うのがいいでしょう」とアドバイスをいただき門人の方々を育てるために心血を注いできました。
島津先生が亡くなりインターネット環境も大きく変わり不確かな情報が入り乱れると、流儀もなにやら別の方向に行きかねない状況にあって、やはり流儀のことについては言わなければならないという思いに至りました。どなたか言っていただければそれでいいのですが。星国雄先生や星家の伝についてしっかり正しいところを言っていただけるなら私は安心して何も言いません。もともそのように先生に申し上げていました。「私は埼玉に帰っておとなしくしています」と。でもそうはいかないようです。いろいろな考え方があることは承知しておりますが、師伝としていただいた考え方、立場をもとにこの流儀について歴史史料も参照して情報発信しています。伝書で言えば「先師の流論をもってまさに相究むべく候」ということを実践しているということです。
47) 柳生心眼流の免許体系38 技はそれでいいが心が悪い
これは星国雄先生から伺ったことです。相伝稽古を終えた時に、星彦十郎先生が星国雄先生に「技はそれでいい。だが心が悪い。だからお前は相伝許されたことを10年間黙っていろ」と言われたそうです。私は「自分から教えられただけで十分理解もできていないうちに軽々しく物をいうな」ということを教えたのだと思っています。先輩たちの面目をつぶさないためという配慮もあったと思います。先生はこの言葉を守って10年相伝を許されたことを黙っていました。うちにはこういう伝統があります。
相沢東軒は京都の人でしたが、おそらく江戸で医学の勉強をしている間に小山左門に出会い東北までついて行きました。いかに小山左門がすばらしい先生だったかと思います。小山左門はしかし簡単には許しませんでした。皆伝も少しずつ慎重に教え、3段階に分けて (つまり3回) 許したと伝えられています。3度目が相伝です。このくらい慎重でした。相沢東軒も小山左門の唯授一人でしたが当時は桃生に大先生方がいらしたので、桃生には入らず佐沼に居をおいたとのことです。桃生の『師弟合祀碑』には当時小山左門は在世でしたが名前は見えませんし、相沢東軒の名前もありません。でもその流れは今日まで続いているのです。
星清右衛門は叔父の星貞吉をさしおいて加藤権蔵から相伝を伝えられましたが、そのことをほとんど他に話すことなくずっと貞吉の師範代を続けました。ですので星貞吉が相伝者でないことは知らない人が多いと思います。私達一関総本部所属の者もかなりあとになってから星国雄先生から聞かされて大変驚いたことを覚えています。
これはなにも唯授一人、一子相伝という立場でなくても同じです。皆伝を受けたならこの必ずこの期間をとる必要があります。今は情報が速いので、誰がどの免許ということはわかるし、また誤情報を防ぐために話さざるを得ない状況ではありますが、それでもじっくり時間をとって自分の考え方を考え整理する修行は必要です。
皆伝を受けて、自分はどうするのか、どうしたらいいのか。ここまで来たら「自分が」ではありません。「皆が」を考えることです。これは自分を押し殺すということではないです。自分は皆の一部です。皆と自分はいつも一緒です。皆は自分の一部でもあります。
そう思えればどうしたらいいか、自分に何ができるかを考えていくことができるようになります。星国雄先生は「我も人、彼も人」とおっしゃっていました。同じ喜怒哀楽の身と心をもつ人。人により考えは様々だと思います。あなたはどうするのか。それを神仏が見ています。少しずつ考えながら、少しずつ積み重ねていくのは皆伝を受ける前も受けた後もかわることはありません。でも考え続けていると結局みな同じようなことを考えていたりするのです。星国雄先生は相伝を受けてから、自分でどうしたらいいかわからず、終戦直後の永平寺にいって草取りの作務をしながらいろいろと考えたそうです。永平寺も終戦の混乱期でほんの一瞬、草ぼうぼうの時があったそうです。
佐藤輝男先生は星国雄先生の一番弟子であり、皆伝者の筆頭でしたが自分を出すことなく常に「星先生、星先生」と師匠を立てていらっしゃいました。問われなければご自身から話すということはあまりありませんでした。南方の皆伝の先生方も三者三様で佐藤永一先生のように表に立って様々な活動をした先生もいらっしゃいますし、小野寺肇先生や佐藤清光先生のように一歩引いて、でもいつも星国雄先生を支えてくださった先生方もいらっしゃいます。星憲明先生は佐藤永一先生から皆伝を許されましたが、ずっと師である永一先生やもともとの師である星国雄先生を立て支えていらっしゃいました。
46) 柳生心眼流の免許体系38 翁の心胆に適う
うちの流派ではここがとても大切です。教わったことをもとにして、いろいろな経験も積み、各自が自分のこととして自分の心と体で技と心を開く必要があります。「翁の心胆に適う」というものです。そうなるには一般的に時間がすごくかかります。二代もかなりかかったようです。(兵法書には数十歳とあります) 開いた人同士であればお互い多少の違いがあったとしても、「そう、その通り!」と思えるほど同じように考えているし、先生と全く同じようなことをその方の言葉でいうのを目の当たりにします。これは不思議です。私の門人の方々が開けるようになるのは、私があの世に行ってからかもしれません。でもいつか分かってもらえると思って託していきます。それくらいこの流儀の心法刀法を理解するのは難しいのです。しかし私たちの流儀はこういう伝わり方をしてきました。これははっきりと申し上げます。私たちの流れにおいては流祖以来の伝統です。口伝上も伝書上も、また史料によっても明らかです。流祖からこの方法で伝えられてきたのです。
桃生の『師弟合祀碑』にもそれをうかがわせるものがあります。「誰か復た業を創り百世の師を継がん」の句です。業を創るとはいざというとき (危急)、また日常生活や仕事 (平生) において、自分から本当の技 (自他を救うはたらき・自他を利するはたらき) が出ることです。その人でしか出せない (固有の)、他人が盗むことのできない技 (その人だからこそ出来るわざ・はたらき) は流祖の心胆を真底理解ができなければ生まれてきません。流祖の得た活人剣の心をもって使い出す技です。このところは依頼主の遠藤春良が銘文を作った新井義路に流祖の言葉を話したのだと思います。新井義路はそのような流祖を「百世師」(百世に一度出るかどうかの師,稀代の師) と誉めています。そんな方の理解がそう簡単にわかるわけもないのです。でも、そうやってまた継いでいくのです。だれが流祖の心技を創りつづけ流祖を継いでいくのかということです。問い続ける。創り続ける。「銘じて曰く」ですので私たちは常にそのことを心に刻んでそうなるよう努めなければなりません。
流祖の師である柳生宗矩についてみてみましょう。元亀2年 (1571年) 生まれ。若いころから父について兵法を学び、文禄3年 (1594年) 24歳で老齢の父に代わって徳川家康に仕官します。関ケ原の戦い (慶長5年 1600年 宗矩歳) は宗矩30歳の時でした。このときは家康の命で大和に戻り地元の豪族や有力者が徳川方につくよう活動し、翌慶長6年 (1601年)に徳川秀忠の指南役になっています。
慶長20年 (1615年)の大阪夏の陣で徳川秀忠の兵法指南役かつ警護役として従った宗矩が秀忠を急襲した敵7人を斬ったというのは45歳とのことでした。ここから元和偃武となり、本格的に徳川の世になっていきます。沢庵和尚との出会いもこのころです。大阪夏の陣で流祖も宗矩の馬引きをしていて、急襲の折は槍をもって加勢したと伝えられています。ですので流祖が宗矩のもとに師事するようになったのは1601年から1615年の間と推定されます。秀忠の兵法指南役でしたが、このころは基本的には立合いと口伝での伝授だったと考えられます。
柳生宗矩はその後『兵法家伝書』(寛永9年 1632年 宗矩62歳) で「漸く知命の年 (50歳) を過ぎ、此の道の滋味を得たり」と書き残していますので50歳頃から自分の理解について書き著すようになっていきました。渡辺一郎は『兵法家伝書』(岩波文庫 1985年) でこのことを「みずからの兵法を客観化することができる境地に至った時期にあたり、相次いで長巻の伝書を作成していった。」と評しています。時代背景もあったと考えられ、茶道でもこの時代に今まで口伝で伝わってきたことを書き留めていこうという活動、つまり伝書化が始まっています。
元和7年 (1621年) 、51歳の時に宗矩は家光の指南役になります。家光は当時18歳でした。まもなく将軍になる家光のために宗矩が53歳の元和9年2月2日に書き上げ提出した『兵法截相心持の事』(『改訂 史料柳生新陰流 (上)』今村嘉雄 新人物往来社 1995年)の後書きによると、「今日迄は是より外は残申さず候事、起請文を以て申し上げ候」つまり、わさわざ「今日まではこうです」と言っているわけです。ということは今後もさらに新しいことが出てくることを否定していません。宗矩自身もさらに工夫し続けるからです。日々新たです。
その師であり親であった柳生石舟斎も晩年まで工夫を続けていきました。柳生石舟斎はこのことをあまり書く事はしませんでしたが、口で伝え、このような工夫や言説はのちに柳生十兵衛によってまとめられていきます。柳生の流れとはこのようなものであると言えます。みなさんもこういうことに自分を引き当ててみてください。
今はわかなくても何十年してから「ああ、そうか」「なるほどその通りだ」とわかったりするので、心にとめておいてほしいと思って師匠は話しています。技もそういうところがあります。どうしてもうまくできないものが、あるときふっとできるようになるものです。星国雄先生も彦十郎先生から相伝の稽古をつけていただいていたときは、自分はその動きが出せなかったとおっしゃっていました。あれほどの大先生でもです。気づき納得していくことはいつ起こるかわからないですが、続けているといずれそういうときが訪れます。何度も気づいたりします。そこにとどまらないで先に進みます。「俺のような鈍感な人間でもそうなるんだから、君たちも必ずできるようになる」とおっしゃってくださいました。
45) 柳生心眼流の免許体系37 自分に当てはめる
初めて基本二十一箇条を教わってから、その後もずっと聞くということを大切していくことが必要です。わかったと思ってもその次の世界があるし、間違って理解していないか絶えず自分を点検していかないといけません。しかし、それだけでは不十分です。流祖は自分ではなく、先師様方も自分ではありません。実際の自分の人生に当てはめていく必要があります。世の中の例でたとえてみたいと思います。
一般に学校の勉強は知識を優先するので、用意されている「解答」を答えればいいというものが多いです。いかに効率よく知識や技術を習得していくかということが優先されます。私たちの頃の受験戦争はまさにそうでした。医学部の解剖学では、これでもかという膨大な量の臓器の部分や場所の名称をラテン語と日本語で暗記しました。医師国家試験を通るために覚えた病気の名前や治療法も膨大でしたがが、今はもっと膨大らしいです。
しかし実社会に出るととたんに壁にぶちあたります。知識だけで済まないことはすぐにわかます。人対人の世界。ここでもまずは先輩方の方法を学び、自分でもできるようにしていきます。しばらくするとそれで出来上がったように思ったりもしますが、実はその先があります。ここまでは仕事を覚えた段階。まだまだです。
最近は情報化社会でAIも発達してきたのでアッという間に必要な情報が集められたりしますが、それはインターネット上にある情報のみであって、それ以外のところにある情報は参照できませんからおのずと限界があります。わからないことを調べて調べてやっとわかる。考えて考えて意外なところから解決策が出てくることもあります。技術の世界は最先端はその方の頭と体の中にあったりすることも多いです。
日本高血圧学会の2025年版の高血圧管理ガイドラインでは、なんと1599の文献を引用し、それだけでなく元になったデータを引出して統合し、幾重にもメタ解析とよばれる精度の高い方法で再解析してエビデンスを構築しています。統計学ではいろいろな方法で検討して同じような結果がでれば真理なんだろうという見方をします。いろいろな方向から切って、断面がすべて円だったらもともとの物体は球形だったと推論するようなものと言われています。そのために、あっちからもこっちからもいろいろな方向や方法でぶった切って検討します。
解決策のないこともあるわけです。根本的に治すことのできない病気はたくさんあります。そうしたらどうするか。今治せなくても将来治せるように世界中で研究がなされています。一生ささげても解決できないかもしれないです。でも研究者たちは挑戦を繰り返しています。
何十年も向上しなかったり後戻りした治療法がある発見をきっかけに飛躍的な向上したりします。発見する人も重要ですが、それを一般に広めていく人も大切です。こういうところの方法やアプローチは人それぞれ。正解は1つではないです。
情報を集め、考え、自分を磨く。ここにくると同じ分野で仕事をしていてもかなり個別化していきます。自分なりのやり方、方法が出てきます。まさに積み重ねです。世の中の状況を知ったうえで自分なりの信念や見解をもって仕事にあたるようになります。
武道も同じところがあると思います。小具足をもらっても皆伝をもらっても、あるいは先生からいろいろと口伝を伝えられても、それをそのまま「言葉だけ同じに伝える」だけではまだまだなのです。もちろんここをおろそかにしてはいいけないのですが、これならある程度おぼえればできます。
そこからさらに稽古を続けていくと、心技を磨きたいのはやまやまながら諸般の事情で中断もし、いろいろな失敗もし、実社会で生きていくという経験を交えて武道を考察していくようになります。星先生もいろいろな苦労をされ、そこで考えたこともよくお話しくださいました。晩年もいろいろな本をお読みでしたし、他流の古い武道伝書も参照されていました。昔の武道家もいろいろなところで大変な苦労をし、それでも生きて何かをつかみ取ってそれを伝えてくれました。自分もいろいろな経験を積みながら勉強させていただきながら、いろいろなことに気づかされることになります。武道を続けるということは自分が生きていくことにおいてどういう意味があるのか、これからの自分にとってどういう意味があるのか、家族を守り子供や門人の方々を育てるとはどういうことか、体や心を健康に保つとは等々。あっちからもこっちからも検討し考えて、何度も思い、気づいていきます。やがて自ら納得して自分の言葉で「こうなんだ」ということを発し始めます。先生のお言葉として聞いていた自分が、いつのまにか同じようなことを思い、言い出すのです。
44) 柳生心眼流の免許体系36 聞き続ける
この「聞く」というのは入門して初心者であるときには大切な作業であることはわかると思います。しかし、それだけでなくその後も大切です。いわば聞き続ける、問い続けることになります。稽古を続けながら、稽古の合間、出稽古の道中、あるいは先生のお宅でこういう話をたくさん先生から聞いているうちに分かってきます。花泉の佐藤輝男先生は星彦十郎先生が花泉に出稽古にいらっしゃるときに、いつも随行していろいろなことを教わったそうです。道すがら晩年の彦十郎先生が杖をつかって川を飛び越えたこと、杖の技を教わったことなどを話されていました。小具足皆伝になってもさらに聞き続けます。皆伝の弟子たちも彦十郎先生のところに来てはお話を聞いていました。皆伝、小具足ともなれば先師様、流祖様にも聞き続けます。いろいろな口伝、逸話などが残っています。二代の書いた兵法書には、「もし他から批判があった場合は先師方の流論をもってこの流儀を究めていきなさい (大意)」と書かれています。流祖、先師方がどのようにおっしゃっていたかをよく考えて分析し、自分の中にこの流儀がどういう流儀であるのかを確立していきなさいということです。よく教わっている人というのはよく聞いている人ということなのです。
さらに先生が亡くなった後でも聞き続けます。何回も「先生、これでよいのでしょうか」と問うのです。星国雄先生も晩年、よく夢の中で彦十郎先生や流祖と話をしていたようです。「親父が完全に伝えるまではこっちに来るなと言っていた」「竹永隼人が俺の体を使って伝えようとしている」。晩年は相当大変でいらしたのでしょうが、お父様や流祖に叱咤激励されての御活動でした。私もそうです。「先生、これでよろしいのでしょうか」「先生、そういうことだったんですね」など。そうして柳生心眼流というのはどういう流儀であるのかを自分の身と心に引き当てて究めていこうとするのです。ただ私の場合は「先生、こんなことあの時に分かるわけないですよ」とときどきグチも申し上げたりしていますが・・・
桃生の『師弟合祀碑』の碑文には流祖の事績や言葉が数多く残されています。石碑を建てた遠藤春良は、後世の門人たちがこの碑文を見て、絶えず自らを励まして問い続けることを止めないよう (自激励、不殞厥問) 願ったと書かれています。「念じて厥 (そ) の問を殞 (け) さず」の「殞 (いん)」は落とすという意味ですが、ここでは落ちて見えなくなる、消える、なくなるという意味です。問うことをやめてはいけないのです。「自分に渡されたのだから自分の勝手にすればいい」ではなく、流儀の心を自らのこころにとめて、常にそれを心底理解していこうとする働きです。これをずっと続けていきます。これがなければ正しく伝わっていきません。自分の都合でどんどん技も心も変わっていってしまいます。流祖の技と心を間違いなく伝えていくというのはそういう働きによって保たれていきます。
