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2025-10-14 00:09:00

29) 柳生心眼流の免許体系21  伝書研究の落とし穴 その3

これは最初からはしないのですが、場合によってはわざと違えて書く場合もあります.わかっていて無茶振りみたいな感じです。こういう例を星国雄先生も私にも伝書で示してくださったことがあります。でも私からすると「先生、今まで十分いろいろ教えて頂きましたから、そんなことわかってますよ」くらいのことです。先生を信じていますからそういう試し振りされても、動じる必要はありません。「ああ、また先生が別なことを言っている。でも自分はこう行く」でいいのです。こういうのは禅的な感じがします。教わった技、教えていただいた先生、伝えてくださった先師様を信じるのが私たちの伝統です。不審があればどんどんお聞きしましたし、「先生、あれはこう書いてありましたが、こういう理解でいいですよね。」と申し上げ、先生もそれでよければ「そうだ」と答えてくださいました。伝書は読み込んで暗記するほどでなければいけません

このような伝統的な伝書の書き方というのはずっと守られてきました伝書をみるとその方がどのくらい素晴らしかったかも、師匠と間になにか問題があったようだということも分かるといわれている・・・と星国雄先生はおっしゃっていました。これは技をみてもそうです。

小山左門の流れや他の流れでもある時代まではこれが残っていたようです。以前、南部藩に伝わった流れの江戸時代の伝書の写しをみせていただいたことがありました。もしある方がこの伝書を持って私に再入門したいと言ってきた場合、この方がどのくらいの技を教わっていて、どの位のことをこちらが教えたらよいかというのも薄々感じてしまいました。これは自分でもビックリしたのですが伝書を見てそう感じてしまうのです。不思議です。江戸に伝わった流れの伝書でも、ああこれは霞伝書 (霞をかけられた人の伝書) だなと気づくことがありました。盛岡に伝わった流れの伝書では、これは2代目からうちの流れとは異なるのですが、これは間違いなく相伝伝書であるというのもありました。言葉・語句ではなく、流儀の書き方が同じなのです。

私もそうですが伝書を書くとき、師匠は弟子のことを思い浮かべながら、その方のためのたった1本しかないオーダーメイドの伝書をあれこれ考えて作ります。書いていると文章に同化してしまって先師様が私に話しかけてくださっているように感じることもありますし、自分でも「こういうこととが大切なんです」という思いを込めて門人の方に教え諭すように口ずさんで書いていたりします。気に入らない場合は大変ですがはじめから書き直すこともあります。すべて同じなら印刷して署名だけすればいいでしょうが、そういうものではないのです。