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2026-02-11 10:23:00

46) 柳生心眼流の免許体系38  翁の心胆に適う

うちの流派ではここがとても大切です。教わったことをもとにして、いろいろな経験も積み、各自が自分のこととして自分の心と体で技と心を開く必要があります。「翁の心胆に適う」というものです。そうなるには一般的に時間がすごくかかります。二代もかなりかかったようです。(兵法書には数十歳とあります) 開いた人同士であればお互い多少の違いがあったとしても、「そう、その通り!」と思えるほど同じように考えているし、先生と全く同じようなことをその方の言葉でいうのを目の当たりにします。これは不思議です。私の門人の方々が開けるようになるのは、私があの世に行ってからかもしれません。でもいつか分かってもらえると思って託していきます。それくらいこの流儀の心法刀法を理解するのは難しいのです。しかし私たちの流儀はこういう伝わり方をしてきました。これははっきりと申し上げます。私たちの流れにおいては流祖以来の伝統です。口伝上も伝書上も、また史料によっても明らかです。流祖からこの方法で伝えられてきたのです。

桃生の『師弟合祀碑』にもそれをうかがわせるものがあります。「誰か復た業を創り百世の師を継がん」の句です。業を創るとはいざというとき (危急)、また日常生活や仕事 (平生) において、自分から本当の技 (自他を救うはたらき・自他を利するはたらき) が出ることです。その人でしか出せない (固有の)、他人が盗むことのできない技 (その人だからこそ出来るわざ・はたらき) は流祖の心胆を真底理解ができなければ生まれてきません。流祖の得た活人剣の心をもって使い出す技です。このところは依頼主の遠藤春良が銘文を作った新井義路に流祖の言葉を話したのだと思います。新井義路はそのような流祖を「百世師」(百世に一度出るかどうかの師,稀代の師) と誉めています。そんな方の理解がそう簡単にわかるわけもないのです。でも、そうやってまた継いでいくのです。だれが流祖の心技を創りつづけ流祖を継いでいくのかということです。問い続ける。創り続ける。「銘じて曰く」ですので私たちは常にそのことを心に刻んでそうなるよう努めなければなりません。

流祖の師である柳生宗矩についてみてみましょう。元亀2 (1571) 生まれ。若いころから父について兵法を学び、文禄3 (1594) 24歳で老齢の父に代わって徳川家康に仕官します。関ケ原の戦い (慶長5年 1600年 宗矩歳) は宗矩30歳の時でした。このときは家康の命で大和に戻り地元の豪族や有力者が徳川方につくよう活動し、翌慶長6 (1601)に徳川秀忠の指南役になっています。

慶長20(1615)の大阪夏の陣で徳川秀忠の兵法指南役かつ警護役として従った宗矩が秀忠を急襲した敵7人を斬ったというのは45歳とのことでした。ここから元和偃武となり、本格的に徳川の世になっていきます。沢庵和尚との出会いもこのころです。大阪夏の陣で流祖も宗矩の馬引きをしていて、急襲の折は槍をもって加勢したと伝えられています。ですので流祖が宗矩のもとに師事するようになったのは1601年から1615年の間と推定されます。秀忠の兵法指南役でしたが、このころは基本的には立合いと口伝での伝授だったと考えられます。

柳生宗矩はその後『兵法家伝書』(寛永9年 1632年 宗矩62) で「漸く知命の年 (50) を過ぎ、此の道の滋味を得たり」と書き残していますので50歳頃から自分の理解について書き著すようになっていきました。渡辺一郎は『兵法家伝書』(岩波文庫 1985) でこのことを「みずからの兵法を客観化することができる境地に至った時期にあたり、相次いで長巻の伝書を作成していった。」と評しています。時代背景もあったと考えられ、茶道でもこの時代に今まで口伝で伝わってきたことを書き留めていこうという活動、つまり伝書化が始まっています。

元和7 (1621) 51歳の時に宗矩は家光の指南役になります。家光は当時18歳でした。まもなく将軍になる家光のために宗矩が53歳の元和922日に書き上げ提出した『兵法截相心持の事』(『改訂 史料柳生新陰流 ()』今村嘉雄 新人物往来社 1995)の後書きによると、「今日迄は是より外は残申さず候事、起請文を以て申し上げ候」つまり、わさわざ「今日まではこうです」と言っているわけです。ということは今後もさらに新しいことが出てくることを否定していません。宗矩自身もさらに工夫し続けるからです。日々新たです。

その師であり親であった柳生石舟斎も晩年まで工夫を続けていきました。柳生石舟斎はこのことをあまり書く事はしませんでしたが、口で伝え、このような工夫や言説はのちに柳生十兵衛によってまとめられていきます。柳生の流れとはこのようなものであると言えます。みなさんもこういうことに自分を引き当ててみてください。

今はわかなくても何十年してから「ああ、そうか」「なるほどその通りだ」とわかったりするので、心にとめておいてほしいと思って師匠は話しています。技もそういうところがあります。どうしてもうまくできないものが、あるときふっとできるようになるものです。星国雄先生も彦十郎先生から相伝の稽古をつけていただいていたときは、自分はその動きが出せなかったとおっしゃっていました。あれほどの大先生でもです。気づき納得していくことはいつ起こるかわからないですが、続けているといずれそういうときが訪れます。何度も気づいたりします。そこにとどまらないで先に進みます。「俺のような鈍感な人間でもそうなるんだから、君たちも必ずできるようになる」とおっしゃってくださいました。

 

 

 

2026-02-04 00:11:00

45) 柳生心眼流の免許体系37  自分に当てはめる

初めて基本二十一箇条を教わってから、その後もずっと聞くということを大切していくことが必要です。わかったと思ってもその次の世界があるし、間違って理解していないか絶えず自分を点検していかないといけません。しかし、それだけでは不十分です。流祖は自分ではなく、先師様方も自分ではありません。実際の自分の人生に当てはめていく必要があります。世の中の例でたとえてみたいと思います。

一般に学校の勉強は知識を優先するので、用意されている「解答」を答えればいいというものが多いです。いかに効率よく知識や技術を習得していくかということが優先されます。私たちの頃の受験戦争はまさにそうでした。医学部の解剖学では、これでもかという膨大な量の臓器の部分や場所の名称をラテン語と日本語で暗記しました。医師国家試験を通るために覚えた病気の名前や治療法も膨大でしたがが、今はもっと膨大らしいです。

しかし実社会に出るととたんに壁にぶちあたります。知識だけで済まないことはすぐにわかます。人対人の世界。ここでもまずは先輩方の方法を学び、自分でもできるようにしていきます。しばらくするとそれで出来上がったように思ったりもしますが、実はその先があります。ここまでは仕事を覚えた段階。まだまだです。

最近は情報化社会でAIも発達してきたのでアッという間に必要な情報が集められたりしますが、それはインターネット上にある情報のみであって、それ以外のところにある情報は参照できませんからおのずと限界があります。わからないことを調べて調べてやっとわかる。考えて考えて意外なところから解決策が出てくることもあります。技術の世界は最先端はその方の頭と体の中にあったりすることも多いです。

日本高血圧学会の2025年版の高血圧管理ガイドラインでは、なんと1599の文献を引用し、それだけでなく元になったデータを引出して統合し、幾重にもメタ解析とよばれる精度の高い方法で再解析してエビデンスを構築しています。統計学ではいろいろな方法で検討して同じような結果がでれば真理なんだろうという見方をします。いろいろな方向から切って、断面がすべて円だったらもともとの物体は球形だったと推論するようなものと言われています。そのために、あっちからもこっちからもいろいろな方向や方法でぶった切って検討します。

解決策のないこともあるわけです。根本的に治すことのできない病気はたくさんあります。そうしたらどうするか。今治せなくても将来治せるように世界中で研究がなされています。一生ささげても解決できないかもしれないです。でも研究者たちは挑戦を繰り返しています。

何十年も向上しなかったり後戻りした治療法がある発見をきっかけに飛躍的な向上したりします。発見する人も重要ですが、それを一般に広めていく人も大切です。こういうところの方法やアプローチは人それぞれ。正解は1つではないです。

情報を集め、考え、自分を磨く。ここにくると同じ分野で仕事をしていてもかなり個別化していきます。自分なりのやり方、方法が出てきます。まさに積み重ねです。世の中の状況を知ったうえで自分なりの信念や見解をもって仕事にあたるようになります。

武道も同じところがあると思います。小具足をもらっても皆伝をもらっても、あるいは先生からいろいろと口伝を伝えられても、それをそのまま「言葉だけ同じに伝える」だけではまだまだなのです。もちろんここをおろそかにしてはいいけないのですが、これならある程度おぼえればできます。

そこからさらに稽古を続けていくと、心技を磨きたいのはやまやまながら諸般の事情で中断もし、いろいろな失敗もし、実社会で生きていくという経験を交えて武道を考察していくようになります。星先生もいろいろな苦労をされ、そこで考えたこともよくお話しくださいました。晩年もいろいろな本をお読みでしたし、他流の古い武道伝書も参照されていました。昔の武道家もいろいろなところで大変な苦労をし、それでも生きて何かをつかみ取ってそれを伝えてくれました。自分もいろいろな経験を積みながら勉強させていただきながら、いろいろなことに気づかされることになります。武道を続けるということは自分が生きていくことにおいてどういう意味があるのか、これからの自分にとってどういう意味があるのか、家族を守り子供や門人の方々を育てるとはどういうことか、体や心を健康に保つとは等々。あっちからもこっちからも検討し考えて、何度も思い、気づいていきます。やがて自ら納得して自分の言葉で「こうなんだ」ということを発し始めます先生のお言葉として聞いていた自分が、いつのまにか同じようなことを思い、言い出すのです。

 

 

2026-01-26 22:10:00

44) 柳生心眼流の免許体系36  聞き続ける

この「聞く」というのは入門して初心者であるときには大切な作業であることはわかると思います。しかし、それだけでなくその後も大切です。いわば聞き続ける、問い続けることになります。稽古を続けながら、稽古の合間、出稽古の道中、あるいは先生のお宅でこういう話をたくさん先生から聞いているうちに分かってきます。花泉の佐藤輝男先生は星彦十郎先生が花泉に出稽古にいらっしゃるときに、いつも随行していろいろなことを教わったそうです。道すがら晩年の彦十郎先生が杖をつかって川を飛び越えたこと、杖の技を教わったことなどを話されていました。小具足皆伝になってもさらに聞き続けます。皆伝の弟子たちも彦十郎先生のところに来てはお話を聞いていました。皆伝、小具足ともなれば先師様、流祖様にも聞き続けます。いろいろな口伝、逸話などが残っています。二代の書いた兵法書には、「もし他から批判があった場合は先師方の流論をもってこの流儀を究めていきなさい (大意)」と書かれています。流祖、先師方がどのようにおっしゃっていたかをよく考えて分析し、自分の中にこの流儀がどういう流儀であるのかを確立していきなさいということです。よく教わっている人というのはよく聞いている人ということなのです。

さらに先生が亡くなった後でも聞き続けます。何回も「先生、これでよいのでしょうか」と問うのです。星国雄先生も晩年、よく夢の中で彦十郎先生や流祖と話をしていたようです。「親父が完全に伝えるまではこっちに来るなと言っていた」「竹永隼人が俺の体を使って伝えようとしている」。晩年は相当大変でいらしたのでしょうが、お父様や流祖に叱咤激励されての御活動でした。私もそうです。「先生、これでよろしいのでしょうか」「先生、そういうことだったんですね」など。そうして柳生心眼流というのはどういう流儀であるのかを自分の身と心に引き当てて究めていこうとするのです。ただ私の場合は「先生、こんなことあの時に分かるわけないですよ」とときどきグチも申し上げたりしていますが・・・

桃生の『師弟合祀碑』の碑文には流祖の事績や言葉が数多く残されています。石碑を建てた遠藤春良は、後世の門人たちがこの碑文を見て、絶えず自らを励まして問い続けることを止めないよう (自激励、不殞厥問) 願ったと書かれています。「念じて厥 () の問を殞 () さず」の「殞 (いん)」は落とすという意味ですが、ここでは落ちて見えなくなる、消える、なくなるという意味です。問うことをやめてはいけないのです。「自分に渡されたのだから自分の勝手にすればいい」ではなく、流儀の心を自らのこころにとめて、常にそれを心底理解していこうとする働きです。これをずっと続けていきます。これがなければ正しく伝わっていきません。自分の都合でどんどん技も心も変わっていってしまいます。流祖の技と心を間違いなく伝えていくというのはそういう働きによって保たれていきます。

 

2026-01-19 21:45:00

43) 柳生心眼流の免許体系35  聞くことから始まる

先週は稽古始めでした。道場に見学の方がいらしていろいろとお話をさせていただきました。ありがとうございましす。私たちの武道の動きや考え方を知っていただき、流儀についての正確な情報を発信することは武道をしているものとしての社会貢献のひとつと思っております。「こういう武道があるんだ」ということを知っていただき、なにか一つでも有益なことを持ち帰っていただければと思っております。文字やネットの情報はまだまだ限られています。古武道の世界はネットに上がっていない情報の方が多い世界です。百聞は一見に如かずというところがあります。入門するしないとは別に、ちょっと見てみたい、また武道をしているしていないにも関わらず文化として興味があるかたでも、興味がある方はどんどんいらしていただければと思います。

 

さて、免許体系といいながらいろいろとわけのわからない話が続いています。武道を始めたばかりの方には言っていることの意味もわからないかもしれないです。

今話していることはある程度武道を経験した方、うちの流派でいえば甲冑以上くらいの方向けです。武道というのは初めはやはり実際に来て見て体を動かした方がわかります。

ある程度その動きが分かってくると、アドバイスしただけでも動けるようになってきますこれが口伝として伝わっています。併せてその動きを統括する心や考え方も言葉で伝えます

実はこういう話をたくさん先生から伝えていだくのです。うちはこういう伝え方をします。「小具足皆伝は口伝が多い」といいます。

もしおつきあいいただけるのであれば初心の方でいまはわからなくても、聞いているうちにだんだんわかってきますので、読み進めていただければと思います。

私が入門したのは星国雄宗家の74歳のときでした。先生も急がれたのでしょう。覚えの悪い、覚えてもすぐ忘れてしまう出来の悪い弟子に、教えたいと思うことを力の限り教えてくださった感があります。それでも先生のご存命のときには先生の真意が理解できなかったことがたくさんありました。何回も教えていただいていたのに失念していたり、自分が別の技と思い違いをして記録をしていることにずいぶんたってから気づいたこともあります。私のノートには「何のこっちゃ」と記しているところもあります。

こういうのは禅の世界に似て居ます。中学校から茶道をしていたので禅語はたくさん知っていました。しかしなんせ受験勉強の延長で理解しただけなので、それは知識上での理解であって、自分の腑に落ちたものではありませんでした。柳生心眼流を稽古するようになって星国雄先生がゆっくり心の育ち具合をみながら伝えていく方法 (禅では『啐啄同時 (そったくどうじ)』といいます。その都度その弟子が必要としているものを教えていくことです) をとってくださいました。それによって禅語も時間をかけて理解していくのだということがわかりました。同じ言葉も経験を積むことでだんだんに深く意味を味わうことができます。

初めの参禅の師で一関にある西光寺の佐藤太彦老師は「絵に書いたぼた餅の味はわからない」とおっしゃいました。禅は坐禅して実際に体験しないとわからない世界です。だからまず指導を受けてすぐ坐禅から始まります。それと同時に、坐禅の後にお茶を飲みながらいろいろなことを方丈様にお話ししていただきました。先輩からは「一寸坐ると一寸の仏」と言われました。ちょっとお釈迦様のまね。そこからスタート。あとはいろいろな書籍や禅師様方の語録などを参照したり、講義 (提唱) に参加したりします。だんだんにわかっていきます。

お経や仏教の本は膨大で仏様のお悟りなど私にはとても分からないです、しかし私なりに仏教を学ぶということ言い表すと「お釈迦様のおっかけをすること」と思っています。お釈迦様は縁起を理法 (空とか無我ともいいます) をさとり、その智慧によって生きとし生けるものを苦しみから救うことに一生をささげました。それの事績を学びながら同じ方向を向いてお釈迦様の背中を追っていく。そんなふうに思っています。不束者の私なのですが及ばずながら諸先輩方の後を追ってと思っています。

さて、仏教では「聞・思・修」ということを言います。まず教えを聞き、考え、実践するという流れです。聞いただけではどんなこともそんなに簡単にできることではないし、日々修練を積み重ねを続けていきくことが大切と言われています。これは武道でも同じだと思います。まず先生や先輩から技を教わって ()、そして自分なりによく考え ()、繰り返し稽古してできるようにする ()。初めは聞く。「聞く」ということが大切です。

2026-01-14 23:35:00

42) 柳生心眼流の免許体系34  無事

今週は稽古始めがあります。私たちの流れでは稽古始めに摩利支天様をお祭りして、三つ餅や三合肴をお供えして1年間の無事を祈願します。自分の家に道場がある場合は稽古納めのときに道場を掃除したあとに摩利支天様と祭壇を作り道場を閉めることになっていますが、現在のところ私たちも公民館を借りて稽古しておりますので稽古始めの時に祭壇を作ります。

稽古が無事でありますように、生活が無事でありますように、それぞれの仕事が無事うまくいきのすように、世の中が無事でありますように・・・「無事」ほど大切なものはありません。家族とともに生活ができ、仕事ができるこれほど尊いものはありません。柳生石舟斎・柳生宗矩が領地を守り願ったものもこのことのためにほかなりません。そのためにせいいっぱいできることをしてこの世を去っていったのでしょう。

江戸時代後期、博多に仙厓さんという有名な臨済宗の和尚さんがいました。仙厓さんはいろいろと洒脱な絵や書き物をたくさん残していて、お殿様からも民衆からも愛された方ですが、武道に関連する逸話もありいつか紹介できればとも思っています。その仙厓さんが「副行は人何とてもおのが身は槌手・袋と米たたきかな」という歌を残しています。「人の幸せはどういうことかといえば、何といっても自分自身で道具や材料 (槌と袋と米) をもって仕事 (米たたき、脱穀) ができることだ。家族のため自ら汗をかいて働く。まさにそういう人こそ福の神だ」ということを言いたいのだろうと思います。

星国雄先生が最晩年に「この人生で何が楽しかったかと言えば、家から弁当をもって職場に通ったことだ」とおっしゃっていました。戦争、水害、労災、そのほかにもいろいろな苦労がおありでしたが奥様や幼い子供たちと一緒に暮らした日々を思い出していたのでしょう。いつも陰から支えて苦楽をともにされた奥様への感謝であれば、私に言わないで奥様に言ってほしかったですが・・・そこは大正男。恥ずかしくて言えなかったのかもしれないです。

ひとそれぞれの生き方があり何のために働くかも人それぞれですが、まず1年の無事を祈り、気を引き締めて稽古始めです。

 

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