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2025-10-21 22:13:00

30) 柳生心眼流の免許体系22  めぐりあいと「執心」 

武道の稽古を続けていると、事情で続けられなくなったり、先生が亡くなってしまうことがあります。伝統文化ではみなそういうことがおこりあるわけですが、その後どうするかは千差万別でしょう。稽古をやめてしまうこともあるでしょうし、思い切って別な流派を学ぶという方もいらっしゃるでしょう。脇道にそれますが、私の大成しなかった茶道稽古の話をさせていただきます。

私は中学生の時に必修クラブで表千家流の茶道を習いました。高校1年生からは稽古場に通うことを希望して表千家の先生を探しましたが、近くでは見つからなかったので母の知り合いの裏千家の先生である田村宗弘先生のところに通い始めました。私はその先生をとても尊敬していたし、のめりこむように茶道に打ち込んでいました。昭和60年東北大学入学とともに仙台に来て楽心会茶道部に入りました。このときの先生は東北大学理学部名誉教授で書家としても有名な有井宗楽 (書家としては陵雲) 先生という方でした。仙台土産で有名な「支倉焼」の包み紙の字を書いた方です。裏千家流の茶道部に属しながら、若気の至りで石州流の清水道幽先生のお宅にも通って1年ほど稽古をつけていただきました。先生は当時最晩年で、茶人の至るところとはこのようなものなのかという枯淡の境地でした。しかし2流派のかけもちはすべきでないし、できないとわかり裏千家流1つに打ち込むことにしました。その後有井宗楽先生の一番弟子である山中宗貴先生に教えていただき、家元の夏期講習にも参加させていただきました。先生の推薦で仙台の茶家としてたいへん有名な岡崎家の先生方にもついてとてもよく教えていただきました。しかし私のもともとの師が田村宗弘先生であったため、免許はすべて田村宗弘先生にお願いして正引次というところまでいただきました。その後武道が主になったしまったこともあり、茶道からは離れましたが一関にいたころに晩年の田村先生をお招きして茶事を催し大変喜んでいただきました。先生が亡くなったのを機に茶道はやめることにしました。ただその後も全く忘れることはできず、ときどき真似事をしています。この縁で家内も一関時代に裏千家の先生に入門して稽古し、長野から知り合いの全くいない東北に来て大変よくしていただきました。娘も赤ちゃんの頃からその教室に連れていきましたので、幼いときに入門を願ったのですがかないませんでした。大学4年生になって茶道をならいたいと言い出し、「どの流派でもいいから自分で選びなさい」と言って京都にある流派をありったけ挙げてメールしました。茶道の流派も沢山ありますが、最終的に裏千家流に決めて稽古に通っています。私は大成しませんでしたが、はからずも3人とも裏千家流に縁をいただくことになりました。

何を言いたいかというと、ある伝統文化を学ぶには、流派や先生との巡り合いというのがとても大切だということです。現代の芸術でもそうかもしれないです。自分に合っている流派、先生、環境に巡り合えることが大切です。あるときには次々といろいろな先生に巡り合い、あるときはなかなか縁が合わず、いろいろな環境、波に合いながら、あるときふっと巡り合う。なぜ巡り合うかといえば「好きだから」ということ。やめてもなんかモヤモヤして、またやろうかなと思う。こういうのを昔の言葉でいうと「執心」といいます。伝書にも「仁にして執心懇望に於いては相伝すべし」と書いてあります。ある人は茶道執心、ある人は武道執心,ある人はサッカー執心、ある人はコーラス執心、ある人は料理執心、ある人はお酒執心?・・・いろいろな執心があります。