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2025-11-24 22:05:00

35) 柳生心眼流の免許体系27   伝書を見て何がわかるのか

星国雄先生は実際にいろいろな伝書をご覧になって、自分の受けた相伝と全く同じ内容の伝書は一本もなかったとおっしゃっています。星彦十郎先生は「どこでどんな伝書が出てきてもここに竹永隼人の技が伝わっているから心配することはない」とおっしゃったといいます。そのくらい口伝立合の伝授なのです。

ですので少なくとも柳生心眼流に関する限り、出てきた伝書を買い込んで、それだけで勝手に内容を解釈したりするのはかなり危険だし不確実だということはわかると思います。ときには「何言ってるんだろう」と思って読んでいることもありますし、極秘伝や失伝とかバイブルとか言われても「そんなことくらい一関総本部でも新田柳新館でも柳正館でもふつうにその免許になれば伝えてますが」みたいなこともあります。

では何を伝えているのか。もちろん内容もきちんと口伝した上ですが、師弟の関係性がわかります。師匠がこの人にこの段階でどの程度のことを教えたか、師匠がその弟子にどのようなことを、またどのようなことが大切なのかを伝えようとしたのかということです。書には書いた人の気持ちが現れるものなので、その本気度によって、おのずから先生のお気持ちが察せられるということになります。字の上手下手、間違っているとかではないです。またそれを受ける弟子がどれだけの人だったかも感じるのです。書道する方なら同じ書き方は王義之のような書聖でもできないことを知っていると思います。

過日、星裕文総本部長と会った時もおじいさん (星国雄宗家の印のつき方でおじいさんの気持ちがわかると言っていました。まったくその通りなのです。先生の書かれたものを見て、ああ、あのときは先生にこういうことを教わった、こういうことを教わったがまだ自分では理解できていなかった、なんとそのようなことであったか等々。伝書を見て先生の教えを思い出し、先生の教えにもどっていくことができます。「お前にこう教えたじゃないか。俺ははじめから隠してなんかいなかったろう」先生が目の前にいらして、先生がおっしゃっているようにも感じられることがあります。「すべてみせていたはずだ」「はい、そうです先生。先生の動きにみな現われているのですから。私が入門したときから先生は二十一箇条でそのことを教えてくださいました」涙が出てくることがあります。それは私に向けた先生のお気持ちが込められているからです。先生が流祖と歴代の教えを受けて、なおかつ長い間生きてきてこういうことが大切だと自分もわかった、だからお前にこういうことが大切なのだと伝えたい。そういうお気持ちが察せられるのです。だから昔から言われるように伝書はお守りなのです。一つ一つの項目は1つの内容ではないです。道場でのたくさんの教えが一語なり一句に集約されているものです。たとえば「手ノ内の大事」といっても、具体的に示せば実にたくさんの技術や心得があります。この技ではこう、この武器ではこうと立ち合いで示さなければわからないものです。

前にも申しましたが伝書は一巻ずつ、師はその弟子のことを思いつつ書いていくので、私も伝書を書くときは思わず自分でも口ずさんで書いていることがあります。伝書のことばなのですが、流祖や先師様の言葉が自分の声となって出てきます。そしてこれが大切だというところになると力が入るのです。「強くとも道なければ弱きに劣る、弱くとも道あれば強きにまさる」これこそが流儀の心です。流祖のおっしゃりたかったことです。おそらく代々そうしてきたのだと思います。兵法は生き方です。