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34) 柳生心眼流の免許体系26 伝書研究の落とし穴 その5
歴史の研究ではある方の真筆と思われていたものがよく調べてもらったら偽造であったということは結構あります。史料が出てきたらまずは本物かを慎重に検討すべきです。
最近もあやしい伝書が出まわっているのを目にしました。他流の図と柳生心眼流の言葉とまぜて書けば伝書など簡単に作れてしまいます。でもそれは柳生心眼流の伝ではないし、区別しないといけないです。
このほか書誌学的な知識も望ましいし、紙の質や変化、墨の色、文字の書き方、時代やその地方の言葉の使い方の違いなどでも鑑別ができます。
星国雄先生も「こういうことが分かれば君たちも柳生心眼流の伝書の立派な鑑定士になれる」といっていろいろなことを教えてくださいました。
そこから自分が得た結論を言うときにはその知見を支持する傍証や背景、他本との比較なども集めて主張する必要があります。これをせずにある部分だけ切りとって、自分の解釈だけを分かったように主張して読み手が十分納得できないまま「言ったもの勝ち」になる状況が柳生心眼流の流儀内にあり、心苦しく思っています。形でもそうですが「一般の人や他流の人はどうせ分からないのだから自分たちがどういってもよい」というのはよろしくありません。(そういうことを私におっしゃった先生が実際いらっしゃいましたが・・・) それは武道を真に愛する方々の当流への興味を減じ、ひいては当流の評価を貶める行為と言えます。
こういうことは真剣にそして謙虚に向き合わなければなりません。科学の研究でもそうですが、言ったもの勝ちになるだけなら研究とは言えません。完全でなくても読んだ方の疑問に答える傍証や根拠をそろえないといけないです。集めた1次資料や2次資料から何がいえるのか、断定なのか、推論なのか、結論には水準があります。あるいはだれかの言葉を引いたのかなど。100%というのは無理ですが、なるべく多くの人が読んでも納得してもらえる表現があります。伝書を検討する場合はこういったいろいろな配慮が必要です。限界も自分で指摘して、必要なら他人の指摘や疑問を受けてさらに検討を行えば、より論を発展させることもできると思います。昔はこういうことは武道家同士でもしていたようです。ご高名な先生が若いころにその当時の大家に疑問をぶつけたところ、その大先生が怒らないで答えてくれたという話もお聞きしたことがあります。
歴史的なことは流儀の伝や師伝が間違っているということもあり得ます。こういうことは古い伝統ではどこでもある問題で、流儀の主張は主張として、でも事実がどうかということに関しては謙虚でないといけないと思います。小生も間違っていることはあり得ますし、新たな史料の発見によって考えを改めなければならないことも可能性はあると思っています。
