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2026-04-21 22:02:00

56) 柳生心眼流の免許体系48 思い邪 (よこしま) なし

このためか歴代の先師様もどちらかというと地味な方が多いように思います。流祖も堅い人だったといわれていますし (『師弟合祀碑』介于石 かたきこと石のごとし)、日常生活においても派手なことをせずに実直に、淡々と生きた先師様方が多いです。私もいろいろなことが、こと兵法に関して派手にならないよう気をつけています。

策がないわけではないのですが、相手をひっかけてやろうとか、そういうレベルの策ではありません。ましてや自分さえもうかれば人をだましてもいいというものでもありません。そうではなくて自分が生きる手だて、人を育てる手だてが必須です。宗矩のいうところの「思無邪 (思いよこしまなし)」ということかと思います。

これはもともとは論語の言葉で「詩経たくさんある詩の内容を一言でいうなら、邪心がないということだ」(『論語』為政。詩三百、一言を以ってこれを蔽う、曰く思い邪なし) と孔子が言ったと書かれています。もちろん詩を作るときと戦闘とではまったく状況も違うので、同じことというには無理があります。どういうことか少し伺ってみましょう。

息子の十兵衛の書いた『月之抄』では初めの「三学」のところで思無邪がでてきます。老父 (宗矩) が言ったこととして、「此の五つは構えをしてたもつを専とする也。待之心持也。亦云、めつけは二星、身の受用は五箇、三学、思無邪ノ心持専なり」と記されています。

さらに稽古が進んでいくと構えがなくても『兵法截相心持乃事』で宗矩は、「わが身のすぐなるがよし。かまへも見せず、たい (他意) もこれなく、そこ (底) の心を張り、うへをゆふ (用) にもちゐてよし。てきのはたらきにのらんためなり。ゆだんなく此の心をもつべきなり」と述べています。姿勢を正しく保ち、構えも見せず、こうしたいというそぶりも見せず、いつも心に油断なく備え、何がきても対応する心を持つべきだと言っています。これはうちでは目録から甲冑の位。

さらに至った人 (達者) の姿として『月之抄』では「西江水之事」として、「中々に里近くこそ成にけりあまり山の奥をたずねて」という歌を引いて、父である宗矩がどのように語っていたのかを書いています。この歌は石舟斎も引いていて、私たちの流れにはないですが、柳生心眼流の他の流れにもある歌です。

宗矩は「心をおさむる所、腰より下に心得可きなり」として基本を示しながら、さらに言葉を継いで詳細に説明していきます。「油断の心あればならざるもの也。其心持肝要也。夫を忘ざる事を心の下作と云也。三重五重も油断なく、勝たると思ふべからず。打たると思ふべからず。夫に随い油断なくする事肝要也」と言っています。さらに「宗厳公 (注 石舟斎) 之伝、これより外はなし」、「此心之受用を得ては、師匠なしと云うなり」「受用を得て、敵をうかがい懸け引き、表裏あたらしく取なしするより外は是なし。是無上至極の極意也」とまで言っています。初めからずっと油断なくですが、同じ油断なくとはいっても初心者に示すときと達者に示すときとは意味合いや深さが異なっています。

勝負のときだけでなく生活すべてにわたって身と心とはたらき(神) をまっすぐにして、野中に幕を張っていく心持ちが必要です。うちでは「自分から映していく」ともいわれます。そうできない自分がいて、できてもすぐに抜けてしまう自分がいるわけですが、先師様が教えたこととして大切に思う必要があります。

どちらかといえば実直を好むものの、人それぞれですから、派手に見える幕を張って生きていく方々が私たちの流れから出ても、活人剣の心がもとにあればそれでよいと思っています。ただ、足元がおろそかにならないよう十分注意が必要です。

2026-04-14 20:32:00

55) 柳生心眼流の免許体系47 一瞬一瞬立ち現れる

柳生心眼流もいろいろと流れがあるので他の流れのことは詳しくはわからないですが、私たちの流れは奥になるとだんだんシンプルになっていきます。

基本二十一箇条をみれば、こうして、次にこうして、その次にこうしてという段取りになっていることがわかります。しかしそれ以降になれば、だんだんに短くなっていきます。柔術しかり、武器術しかりです。前置きは無くなっていきます。何をいっているかというと、形がどのように長くとも短くても、その瞬間、その瞬間のやり取りの連続ということです。これを油断なく、厳しく実行していくということになります。これはとても禅的です。ですので基本二十一箇条の表でも、これは個々の技、身のかわしの連続ととらえています。そういう形に仮に構成されているだけです。ですから表と中極と落の内容を別の形に再構成することも、混ぜてとることも、いろいろ入れてとることも可能です。「敵取りの形」というもので戦うという方法をとりません。伝書でも柴を使って小屋を作り、解いてしまえばもとの柴になるという歌があります。

星国雄先生に「うちに相手にこうさせて、こうして、次にこうなってというような形はありますか」とお聞きしたことがあります。つまり、こちらから仕掛けたり、それを外されたので次はこうというような約束のある形がありますかという意味でお聞きしたのですが、先生は腕を組んでしばらく考えてから、「ない」とはっきりおっしゃいました。ここはとても重要です。

例えば礼儀剣のように一見組太刀の形 (かた) のようにみえるものもあります。始めて習ったときは形として習うわけですが、しかし心持ちは単なる形ではないのです。あらかじめ体と心に幕を張り、水月を写し、相手が形からはずれてどう攻撃してきても、その瞬間その瞬間に相手の心や体の動き (つまり機・はたらき) に従い動いていきます。こういう考え方は今、今と心が連続していく禅の「而今」と似ています。1つの動作が終わったときも心が切れてはいけません。心は連続していきます。

2026-04-06 22:36:00

54) 柳生心眼流の免許体系46 秘するはしらせむがため その4

この日曜日 (4月5日) は西洋のイースター、つまり復活祭でした。(正教会は今年は4月12日) 。2月に四旬節が始まって、四旬節最後の1週間はキリストがエルサレムに入城した枝の主日 (Palm Sunday)、ユダが裏切った水曜日 (Spy Wednesday)、最後の晩餐のあった聖木曜日 (Holy Thursday, Maundy Thurday)、キリストが十字架にかけられた聖金曜日 (Holy Friday)、キリストの受難と死をしのぶ聖土曜日 (Holy Saturday)と続き、そこから古い教会では夜祈りをささげて(徹夜のところも)、日曜日の復活祭当日を迎えます。この伝統は2000年以上前の出来事を今も生き生きと伝えています。

私は仏教徒であり神社の氏子でもありますが、今年ほど復活祭を意識した年はなかったように思います。ウクライナだけでなく中東でも争いがおこりたくさんの方々が亡くなっている中での復活祭で、本当にたくさんの人たちが心の底から早く戦争が終わるように祈っているように感じました。

さて、今日のテーマに入ります。寛永14年 (1637年) に柳生十兵衛は江戸に上り、自分の修行研究の成果をとして一書を書き上げて父親の柳生宗矩に提出しました。 (史料 柳生新陰流 下巻 『昔飛衛といふ者あり』) その書を一覧した宗矩は「そのような戯言は火にくべて灰にしてしまえ。そうしたらお前を許そう (柴之閑言語一炬に灰となして後来たれ。汝をゆるさん)」と話しました。おそらく毅然として静かに話したのだと想像しています。この段階では十兵衛はまだ技や刀の兵法にとらわれています。十兵衛はショックを受けて退き沢庵和尚のところに行きます。そうすると沢庵和尚は「それはあなたに本当の意味での西江水の意味を理解してほしかったということなんですよ。さあ、西江水 (いままで経験してきたこと、教えてもらったことのすべて) を一口に吸い尽くしたらどうなりますか」と話し、十兵衛ははっと気づきました。(これは私の想像も入っています) 宗矩は別のところで「この心の置きかたを西江水とも神妙剣ともいう (史料 柳生新陰流 上巻 寛永10年『新陰流兵書』、此心の置所を是を西江水と秘し或いは神妙剣とも秘したる也)」といっています。

宗矩の導き方は馬祖と龐居士の西江水の問答に似ています。沢庵和尚の助言は臨済が黄檗の下で悟れず、大愚の助言で悟ることができた機縁にもなぜか似ています。昔はこういう指導がよくなされたのでしょう。十兵衛が加筆して改めて提出したところ、宗矩もそのことが分かったのでしょう。許して巻末に自らしたためています。これが十兵衛への印可許しです。その際に宗矩は「是れ車を牽き車を押す。只だ車の行くを欲するため也」と書いています。つまりその人に進んでほしいから前から引っ張ったり後ろから押したしたのだと。つまり改善すべきことを指摘したり、そのためにどうしたらいいか助言したり。みな「伝えんがため」です。

もうひとつここで分かるのは、正しい理解が伝わるためには師弟の努力だけでなく、助けてくれる様々な環境 (縁) によっていることです。十兵衛の指導に宗矩と沢庵がそれぞれ役割を果たしています。十兵衛に道を求める真摯なこころがあり、十分心が育っていたという側面も見逃せません。

小具足以上になる方には、このような指導者としての自覚についてお聞きしています。なってみたいだけで許すことではないです。伝えられる側から伝える側に、もてなされる立場からもてなす立場に、この転換は短期間ではできないことですが、覚悟をして進んでいっていただければなからずできるようになると思います。背伸びすることはありません。これもまた「秉心塞淵」。積み重ねです。どうしたら真伝が伝わるか。皆伝の技一本みせて済む話ではありません。

流祖の教えたことが末長く伝わっていくということは、流祖の努力だけでなく代々が常に努力していないとできないことです。現にここにその伝統が伝わっているということは代々の先師様たちがそのように努力し伝えてくださったということの確実な証拠でもあります。どの流派もそうだと思います。

「形をみせて受けついてもらえばいい」「写真やビデオにとればそれで真似してくれるだろう」という方法もあります。それがやむを得ない場合もあるとは思いますが、できるなら時間をかけて少しずつ確かめつつ綿密詳細に伝えていくことが望ましいと考えています。

2026-03-31 17:05:00

53) 柳生心眼流の免許体系45  連山峰遠し

埼玉はだんだん暖かくなってきて、ときに暑いくらいにです。4月も下旬になると夏のような状態になるのでしょう。先週は仙台に出稽古に行って、ふきのとう (ばっけ)、うこぎ、かんぞうを買ってきました。それぞればっけ味噌、うこぎごはん、おひたしにして春の香りを楽しみました。東北にいたころはずいぶんいろいろな山菜を楽しんでいましたが、埼玉、特に私のいるさいたま市ではあまりスーパーに出ません。ばっけ味噌も子供のころは好きでなかったのですが、影山流の羽川先生のところで稽古をさせていただいていた折に、奥様手作りのぱっけ味噌をごちそうになり、それからは自分でも作るようになりました。4月末にも宮城に行くので、またさらにいろいろな山菜が出ていることと思います。

さて、私たちが道場で稽古するのはなぜかといえば、その価値があると自分たちで思えるから。実感できるから。楽しいから。どんな古武道流派も同じだと思いますが、道場での稽古は流祖の心技を正しく伝えていくことが大切です。そのために腐心しています。うちでいえば流祖の編み出した体のかわしと柳生の活人剣の心を正しく伝えること。それによって、あとから入っていらした方もその価値、大切さを実感できる。

流祖の身のかわしと柳生の活人剣の心をわかってほしい。しかし私たちの生来もつ受け取る力・理解力の乏しさ、身勝手・怠惰な習性から真伝というのは本当に伝わりにくいものです。加えて興味も視点もさまざまで、得意不得意、体の特性も人により違う。その人に適した方法をいつも考え、順番も場合によっては変え、伝える側も教わる側も心を砕いて稽古の「場」をつくらないと伝わるものも伝わらなくなってしまいます。そのためにいつもお互いが努力することが大切です。

とくに伝える側がこれをいつも自戒していないといけないと思っています。どの文化でも伝統を途切れさすことは自身の怠惰の一瞬でできます。ある日からやめればいいだけですから。伝えないことの格好いい理由をつくって「だから俺は伝えないんだ」という方もいらっしゃいました。しかし星国雄先生はそのような言い訳はなさいませんでした。最晩年も「心配するな。全部教えるまではあの世に行かない」「竹永隼人が俺の体を使って残そうとしている」とおっしゃっていました。

先生がそのころおっしゃっていたのが「親父は血を吐きながら俺に教えてくれたんだ。どれほど苦しかったかと思う」という言葉でした。彦十郎先生は最後の気力を振り絞って国雄先生にバトンタッチしました。その結果「(だれが一子相伝を継ぐかは) 俺はどうでもよかったんだ」という国雄先生は、亡くなる1週間前まで道場に立たれそこで倒れました。

狐崎の佐藤初治先生が星国雄先生に門人に取手を教えるときに自分が投げられなくてはならず、「いやあ、国雄先生、60歳過ぎてから投げられるのはひどいですよ」とおっしゃっていたとのことです。先生も自分が投げられながら門人の方に一生懸命伝えようとしていたのでしょう。人は40歳、60歳、そして75歳を超えるころに体が変わってきます。私も今年は還暦になり、その言葉が身に染みてまいりましたが、マットを敷いたうえでしばらくは投げられようと思っています。

私が学生時代に島津兼治先生にお会いしたとき、先生は今の私と同じころだったように思います。当時の先生はたいそう稽古をしていて、ゴムまりのような弾性に富んだ力強く速い動きをされていました。神社境内の稽古で学生さんたち相手に素振りを教えながらぱっぱと動いて、「君たち、下手くそだなあ!」などと叱咤激励していました。

私が星国雄先生に入門したのは先生が74歳のときで、そこから先生がふんばられて18年教えをいただくことができました。

禅語に「連山峰遠し」というのがあります。修行というのは登っても登ってもこれでいいということはない。またその先が見えてくる。でも登り続ける。歩いていく。それでいいです。武道に限らず芸能の世界はみなこれであると思います。

2026-03-23 22:03:00

52) 柳生心眼流の免許体系44  刀の形 

先週は外から講師の先生をお招きして試し切り会をしました。昨年は1回でしたが好評だったので今年は2回の予定です。うまく斬らないと刀も曲がってしまうので、何回も先生には直していただきました。皆さん喜んでくださったのでなるべく続けていきたいと考えています。

星国雄先生は「木刀で十分だ」とおっしゃっていました。それは先生が幼いころにも自宅に何振も刀があって裏の竹やぶにいっては試し切りしていた経験があり、若いころに刀匠に弟子入りして刃の焼き付けができるほどに刀のことがわかっていたためのお言葉です。

うちの流儀は左太刀に持ち替えがあるのですが、真剣では気を付けないと持ちかえのときに手を斬ってしまうことがあります。実際、私も掌を切ってしまったことがあります。木刀と真剣では重心も重さも違います。すこしでも刃に触れれば切れます。ですので古流を学ばれている方は絶対に刀の刃のある間には入りません。怖くて入れないです。切先の届かないところまで引く (抜くといいます) か、柄や腕の位置まで入るか (入身といいます)。入る場合も切り返されないように身を防ぎながら入っていきます。こういうのは「十字神妙剣」「大体の神妙剣」という教えに入っていますし、目録あたりでしっかりと稽古する内容です。

刀は時代によって形 (姿とか体配といいます) が違います。その時代だけの一時の流行もあります。両手で持ってつかう鎌倉時代以来の太刀、それよりやや短い打刀 (うちかたな)、そして室町時代に出てきた技法である片手打ちに使う刀など。太さや反りにいろいろと特徴があります。純然たる戦争用の武器として制作したのは桃山時代までで、江戸時代になると平和な時代もあって美術的な美しさが際立っていきます。そして幕末になるとまた実戦を意識した姿になっていきます。

私は流祖の時代、つまり安土桃山時代や江戸初期までの刀 (末古刀) に興味があって、そういう刀があるとつい見てしまいます。流祖が使用していた刀はこのような刀ですので、その時代に思いを馳せてしまいます。注文打ちで作られる美しい刀もよいですが、そのころは「何日までに1000振納入せよ」などという時代ですから、数打ちといって何本も同じ規格で少し粗製でも沢山作っていきます。うちの流儀の技はこういう刀が使いやすいようにできているのが実感としてわかります。

厳密に流儀の形の刀というのはないのですが、およそこういうものというのは示されています。太刀としてはしのぎの高いものが好まれていて、東北で古くからこういう形があります。また奈良の大和伝から派生した系統は鎬が高いですし、仙台国包なども大和伝の名手なので、こういうところから言われているのかもしれません。打ち刀 (うちでは中刀といいます) は2尺2寸5分が一応の定寸です。鎧通は厚身平造りの世にいう鎧通とは違う形です。こういった刀の歴史は武道の歴史とも共通する部分が多いですし、流祖の時代を知る上にも大切なので、門人の方には勉強することをお勧めしています。

ただ、流儀では「あるものを使う」ということが原則です。何でなければ使えないなどとは言っていられません。身の回りにあるものはすべて使って身を守るのですから。

 

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