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2025-05-20 21:42:00

7) 私の著作・著書・収集史料 その4          

4. 作成伝書類

 平成188月に星国雄宗家が亡くなってからしばらくの間、総本部で発行する伝書 (免許) を私が書いていました。皆伝伝書は令和75月までに8巻書いています。うち3巻は星国雄宗家の代授、3巻は総本部長 (2代目星国雄) 名で発行する伝書の代筆です。令和75月に柳正館でも初めての皆伝者が2名出ました。

一関時代      総本部宛 1 (代授)

仙台柳心会宛 2 (代授)

拳心会宛 3 (代筆)

  柳正館           2

 平成22年に埼玉に帰ってきて15年目かかりました。それでも完全というわけではないのですが、ここからは一緒に流祖や先師様たちの背中を追って走っていくだけです。これから何人の方に皆伝をお出しできるかわかりませんが、命の続く限り門人の方々とともにこの道に精進していきたいと思っています。

以上、私の主な著作、著書、作成史料などをお示ししました。いつもこの流儀に集まってくださる方が楽しく正しくこの武道を学べるよう、環境整備をすることが私の第一の使命と考えて活動してきました。

平成10年から22年までの柳生心眼流兵法総本部のことについては私が一番わかっており、そのようなことは流儀内ではわかっていることです。そうでないというなら、どうぞお申し出ください。ホームページではその頃のことも少しずつお話ししていこうと思っています。

 

2025-05-19 19:57:00

6) 私の著作・著書・収集史料 その3 

3.  柳正館時代 

 

平成204月から平成223月までは盛岡で過ごし、平成224月から郷里の埼玉県さいたま市に帰り稽古を開始しました。館名は「柳正館」とし、「正」は星国雄宗家から頂いた武名である「源正国」に由来します。何か所か稽古場所を移動したのちに東大宮7丁目自治会館で定期的な稽古できるようになり、現在も同会館で稽古を続けています。

 

 

     『柳生心眼流兵法資料集』(平成24)

 

それまで私が収集した柳生心眼流兵法に関する伝書史料を仙台柳心館、拳心会、南方、総本部の甲冑免許以上であった関係者15名にCD版で配布しました。

 

この資料集はその後も順次改定を続け、柳正館の館員にも配布しています。

 

     『拳心斎先生口述聞書 上』(平成28) 249頁。略称は『聞書上』。聞書は私が星国雄宗家につけていただいた稽古記録です。学生の頃は東北本線で仙台から一関まで1時間半かかりました。帰りの電車で稽古内容を記録していました。この習慣が先生が亡くなるので続きましたので、全18年間の記録になります、このうち平成元~5年までの記録を上巻に載せています。技は秘伝で公開できないことも多いので、心法や歴史に関することが中心です。星国雄宗家の肉声による膨大な口伝を伝えていて、他の道場にない柳正館の教授内容の根幹となるテキストです。今後少しずつ内容をブログでも取り上げたいと思います。巻末に「拳心斎先生略年譜」を載せています。初版本は在庫がなくなったため、現在第2版出版を計画しています。

 

     『拳心斎先生口述聞書 中』(平成30) 319頁。略称は『聞書中』。平成712年の稽古記録です。巻末に「星家の柳生心眼流兵法と星国雄宗家」「流儀の心」という文章を載せています。

 

     『拳心斎先生口述聞書 下』(令和3) 276頁。略称は『聞書下』。平成1318年に先生が亡くなるまでの最晩年の稽古記録です。巻末に「佐藤輝男先生口述」「道の要略」を載せています。

 

 

2025-05-16 21:27:00

5) 私の著作・著書・収集史料 その2 

1.       一関総本部時代

 平成105月に一関に転居し、星国雄宗家のもとで総本部の仕事をするようになりました。当時の肩書は総本部総務です。平成1010月に一般用皆伝を許されました。このときの伝書は佐藤輝男先生が代筆し、星国雄宗家に署名、捺印をいただいたものです。この時代は一関総本部と各支部で使用する規約や指導過程を明確化するための書類を多く作成しました。

 

     仙台柳心会資料『柳心館本部道場規則』とその解説 (星国雄監修 仙台柳心会編著 平成11)

 柳心館本部道場規則 (柳心館規則) は星彦十郎先生の道場規則です。柳生心眼流兵法の流法は江戸時代から伝わる定則と、明治32年の柳心館規則がありました。柳心館規則と現行法式(仙台柳心会内での申し合わせ)の違いを明確化するために作成した解説書です。私が草稿を作り星国雄宗家に監修をいただき、仙台柳心会で検討し本稿としました。 全12頁。

     仙台柳心会稽古教程 (平成11) 

入会から甲冑免許までの概要を表形式にまとめ、星国雄宗家に監修いただいたものです。全5頁。

     『二十一箇条稽古の手引き』宗家星国雄監修 仙台柳心会編 (平成12)

基本二十一箇条に関することをまとめた内容です。星国雄宗家に監修いただいています。全31頁。④はこの草稿を大幅に増広して作成したものです。

     『柳生心眼流兵法入門』(宗家 星国雄監修 仙台柳心会編 平成14)

 仙台市仙台開府400年の記念行事として出版しました。星家に伝わる柳生心眼流兵法としては歴史上初めての本格的で公式な入門書になります。門人に配布するほか、市内の施設にも寄贈しています。掲載する写真を撮っていたので私の写真は1か所も出ていませんが、第212章までと付録12を私が担当し執筆しました。草稿は星国雄宗家に監修いただき、仙台柳心会内の編集委員会でも討議して本稿としました。当時宮城岩手の多くの師範がいわゆる「敵取」を勧めていましたが、星国雄宗家の指導に基づいて、星家伝で最も重要な形は基本二十一箇条、つまり基本取であることを示しました。

 ここには挙げませんが、平成16年の「柳生心眼流兵法 秘伝発表演武大会」や平成18年の「柳生心眼流兵法 第14代宗家星国雄師追悼 仙台支部 (仙台柳心会・泉拳心会) 創立20周年記念演武会」などの記念冊子も作成・とりまとめしています。

2025-05-15 23:50:00

4) 私の著作・著書・収集史料 その1

以下に私の作成した資料、著書などを紹介していきます。

 

1.       仙台柳心会時代

     心眼流コミニュケーション 第1号~第8号 (平成8年~平成10)

 

私は仙台柳心会に昭和63年に入会しました。星国雄宗家への入門も昭和63年です。平成8年から仙台柳心会内でのコミニュケーション促進を目的に一人で編集し発行していました。当時の稽古、伝授、武道大会の参加記録があります。最後に編集を担当した第8号には平成103月に日本古武道協会主催によるフランス・モナコ演武大会に参加したときのことが書かれています。この時の参加者は星国雄宗家、星徳一、相澤清、高橋健、酒井直の5名でした。

2025-05-13 21:26:00

3) 流祖は竹永隼人

星国雄 (初代) 門下では柳生心眼流兵法の流祖は竹永隼人となっています。これは今では自明のことにように思いますが、はっきりと流祖は竹永隼人であるとしたのは比較的最近です。これは星国雄が柳生新陰流の師範である柳生厳長、大坪指方との交流し、たびたび桃生の調査を行って数々の史料や師弟合祀碑が発見された結果によるものです。これには地元の郷土史家や大坪指方の協力も大きかったようです。出版物によりその経緯をみていきます。

星彦十郎晩年の昭和1758日に明治神宮で行われた「戦没将士慰霊 古武道各流大会」記録では流祖は「柳生美作守」、流派は「柳生心眼流 (甲冑兵法 小具足之型) となっています。

昭和34年の『宮城県史18(宮城県史編纂委員会 402ページ)では「元祖 竹永隼人は仙台藩浪人で、神道・神願・首座・戸田四流の末流で私に心眼流を立てて」とあって、これは寛政4年の『御家中士凡諸芸能調書抜』(宮城県立博物館蔵) によったものと思われます。

昭和53年『増補大改訂 武芸流派大辞典』(綿谷雪・山田忠史編。東京コピイ。848) では「はじめ庄内藩士の羽州帯刀 (戸沢帯刀と同一人か) 柳生五郎右衛門宗俊 (石舟斎の子) から伝授をうけて、神眼流を開創した。この流れは数伝して竹永隼人金次に至る。・・・(中略)・・・とはいうが竹永以前の伝承に関しては、なお正確を期しがたい。」とあります。

星国雄は昭和4050年代に島津兼治とともにたびたび桃生の調査を行っています。このときのことを「島津と自動車に寝泊まりしてパンの耳をかじりながら回った」と述懐しています。

同じく昭和53年『秘伝 日本柔術』(松田隆智 新人物往来社) には「柳生心眼流の初期の伝承者、すなわち元祖の羽州帯刀から竹永隼人に至る」とあります。なお、この本の柳生心眼流に関しての資料原稿は島津兼治から渡されたと聞いています。

「古武道 柳生心眼流」(星勝雄 昭和60) には「柳生心眼流の流祖は、以上に挙げた理由によって、竹永隼人であるとしたい。」とあり、このころにおおよその合意が得られたものと考えられます。これは私が大学に入学し仙台で柳生心眼流に出会ったころのことです。

平成元年になると『日本古武道総覧』(日本古武道協会) の柳生心眼流兵法の欄では「流祖竹永隼人」となっていて、以後この内容が引き継がれていきます。

 

私の頂いた伝書でも一番最初は柳生美作守、柳生宗矩、竹永隼人とさまざまで、文章中にも「竹永直人翁之所伝之兵法」、「柳生美作守之所伝之兵法」と異なって書かれていたりします。このように伝書によって伝系や内容が異なっていることは柳生心眼流ではよくあります。昔はこのような伝書の伝系や内容は、異なっていてもありがたくいただいてそのまま書き伝えることが美風とされていたので、疑問を挟まないということが多かったと考えられます。しかし星国雄は流祖の問題はゆるがせにできない大きな問題であるとは考えました。このため桃生の調査を行って詳細に検討して「流祖竹永隼人」を確定しました。今でも不明な点はたくさんあるのですが、このような経緯から星国雄の門下は竹永隼人が流祖であるとして、以降もこの決定を踏襲しています。

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