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13) 柳生心眼流の免許体系5 目録までは続けてほしい
ですから最初はすなおに教わったとおりに進んでいく方が近道です。切紙くらいまでは正確に覚えることを優先させてください。自分勝手な解釈や思い込みがあると、そこに引っかかってしまいます。先生の言うことに納得できないこともあると思います。その場合は質問してかまわないと思います。それでも納得できない場合は、そのまま記憶の中にしまっておきます。私のノートにも当時はわけがわからず「何のこっちゃ」とメモしてあるところがあります。何年もたってから、「あっ!」と気づくことがあります。そういう葛藤もあとからみると良い思い出です。
ある程度習って正確にとれるようになったら自分でも工夫をしていくようにしましょう。目録くらいからはそういう時期です。相手の動きに合わせて自由に動くことができなければいけません。自分でいろいろとシュミレーションして、考えて、先生にいろいろと聞いてみてください。体のつくりも人それぞれ。相手よってもみな違う。いろいろなアドバイスがいただけると思います。
柳生心眼流に興味を持って入ってくる方には、ぜひ目録くらいまでは続けていただきたいと申し上げています。しっかりやれば2年半から3年くらいです。そうするとある程度何かあっても動けるようになりますし、何かあっても武道の心得があるという感じの動き方になります。もういいかなと思ったら、それでやめていただいて結構です。でも基本二十一箇条と活人剣の心を忘れなければ私たちはともに柳生心眼流兵法の仲間なのです。何十年もたってから、ああ、そうなんだと気づくこともあると思いますよ。
12) 柳生心眼流の免許体系4 「裏は広い」その2
伝書の「裏は白い」についてもう少し説明したいと思います。
伝書の表には文字があり、裏には文字がないのです。これを技に当てはめると、表の文字は教えていただいた形です。しかし教わった形だけでは千変万化してくる相手に対応できないですので、これを工夫していろいろな条件での使い方に変化させていきます。具体的なことは道場での立ち合いで伝えます。これを「師匠が砕いて教える」といいます。
こういうのが実際にはとても役立つのですが、初めに習うのは「形」ですから形がある程度できてきたというところで「砕き」に入っていきます。ですからこういうことは長く通って師匠に随身していないと教えられていませんし稽古もしていません。星国雄宗家も「〇〇はあまり師匠から砕いて教わっていないようだ」という評価をしていました。こういう師範は単一の形しか教えません。
裏が白い (広い) というのはその変化が限定されていないことをいいます。つまり無限。相手も違えば状況も違う。ですがいろいろと変化を学んでいると何か法則性みたいなものがあって「たいがい同じ」とわかってきて対応できていくようになる。ここが大切です。これが流祖の伝えようとした本当の「身のかわし」です。そうなるように師範が立ち合いで体や言葉を尽くしていろいろと伝えていくのです。
11) 柳生心眼流の免許体系3 「裏は広い」 その1
そもそも免許とはどういう意味でしょうか。免許のもともとの意味は許可することです。昔の師匠は「誰々に目録を許した」という言い方をしていました。「そろそろ次の段階のことを習ってみましょう」という許可です。武道も自分の固定概念にとらわれていて、自分だけでは上達できないことがよくあります。教えてもらって気づく。「え、そんなことってあるの?」と思う。つまり世界が広がるということです。自分では気づいていない世界を気づかせていただく。これが大切です。
私自身はいろいろ教えていただいて「自分ではこんなこと思いつかなかったよな」という思いが多々あり、ただ一生懸命に先生についていきました。
星国雄宗家も「甲冑術は星国雄が作ったものだといわれるが、もしそれが本当なら俺は天才だ」「相伝を許されたとき、これはすごいことだぞと思った」とおっしゃっていました。そう、並の人が考え付く事ではないです。私のように才能のないものが習う。歴代の先師様たちもそういう思いでここまでもってこられたと思います。流祖や先師様たちがいらしたからこそ、またそれを支えてくださった方々がいたからこそ今私たちが習うことができる大切な技です。自分で考えられる天才の方はうちで習わないでいいと思います。自分で技を編み出せばいいのですから。
私は武道だけでなく茶道、能楽、書道なども習ったことがあります。茶道では免許は「その段階に達した」ということを証明するものではなく「次のお点前を稽古しはじめましょう」ということです。能楽なら「難しいですが次の曲を稽古しましょう」「次の仕舞を稽古しましょう」という許し状です。日本文化はそういうところがあります。いただいて終わりということではなく、どのことがらも頂いたら一生かけて修行して深めていくものです。
武道であれば技は代表的な状況についてなので、まずそれを正確に覚え、その間を埋めて千変万化に対応できるようにするのは自分です。このことを伝書の裏側が白紙なのにかけて、「裏は広い (白い)」といいます。いろいろなことに気づいてできるようになるには時間がかかります。それを「心が育ってくる」といいます。そうなるまで師匠も待つべきだといわれています。星国雄宗家は「待つのはつらい」とおっしゃっていました。教えたいが、それでも心が育つまで待つ。このように少しずつ教えていくのが伝統的に方法です。彦十郎先生も星国雄宗家に「なんでもチャンチャンと教えるものではない」とおっしゃったそうです。ですが全く教えないで黙って待っているわけではないのです。それができるようになるために、ずいぶんいろいろなアドバイスがある。これが口伝として集積されているのです。
10) 柳生心眼流の免許体系2 免許の基準は身のかわし
前回、同じような免許があっても習っている技は同じではないという話をしました。ではその人がその免許をいただいたというのはどういうことを示すのでしょうか。これはその人がどのくらい流祖の教えようとした体の動き、つまり「身のかわし」をできるようになったのかということです。星家の流れではたとえば切紙は形をある程度正確にとれて勢いがましてきたこと (技が切れてくる) を師匠が認めたことになります。目録では相手に対応して自分も自由自在に速く動ける (どのようにも動く) ようになってきたということです。このように私たちは身ごなしで段階を決めています。もちろん完全ということではないです。その段階に入ってきたということです。私は少し前でも免許をお出しすることが多いです。多くの方々に次の世界に触れていただきたいからです。
星家の流れではだいたいの場合、柔術の技である基本二十一箇条によって身のかわしを見ます。実はこういうことは柔術でも、剣術でも、棒術でも同じですので、何を教えても同じように段階をみることができます。
なかなか分かっていただくのが難しいのですが、柳生心眼流兵法というのは、柔術で入っても、剣術で入っても、他の武器術でも、初めから結論をお出しする形になっています。これは稽古しているうちにわかってきます。学校でも同じテーマを学ぶときに、先生によっていろいろな異なる教材を使って教えたりしますね。流祖も習う人の好みや特性に合うように教えたので、もともと技は同じでなかったのです。こういうことをある程度体系化するには2、3代かかったろうと星国雄宗家もおっしゃっていました。でも何度も言いますが「身のかわし」は一緒。だから柔術でも、剣術でも、棒術でも、居合でも流祖の伝えたかった「身のかわし」は教えることができます。習う人はこれらをしっかり学んで、自分なりに応用することで身を守っていくことができるようになります。
一方、このあり方は問題点もあると思います。当身が好きな先生は当身の技が多くなり、体当たりの好きな先生は体当たりが多くなり、武器術の好きな先生は武器術が多くなるともいわれます。どんどん技の数も内容も変わっていってしまうという可能性を常に持っているのです。このようであるため柳生心眼流は一見いろいろあるが、なんだかよくわからないように見えるのです。この問題は後に触れたいと思います。しかし根本の活人剣の心と身のかわしは一緒なのです。本来いかようにも変化するものなのです。
こういうのはとても禅的です。流祖に会いたければ、活人剣の心をもって正しい基本二十一箇条の形をひたすら稽古していると流祖の心に触れることができると思います。ただしそんなすぐにはできないですよ。一人よがりにならないよう、なるべく道場に来て先生や先輩の話をよく聞き、動きをよく見て、実際に相手と組み取りして上達していく。それがいつも稽古の王道だと思います。
9) 柳生心眼流の免許体系1 みな一緒ではない
私たちの流れ、つまり一関総本部、仙台柳心会、拳心会、柳正館は「切紙免許」、「目録免許」、「甲冑免許」、「小具足免許」、「皆伝免許」と一応しております。星国雄宗家からもこの5つは守ってほしいといわれています。つまり星家伝の柳生心眼流兵法はこの5つが正式なものです。見てわかると思うのですが、内容的には柔術・武器術を含めて「甲冑をつけた時の技」と「それ以外の時の技」という2つの教えからなっているということです。
しかし免許の出し方は時代によりかなり異なっています。他流でもそうですが、江戸時代から「切紙」「目録」「皆伝」という三段階の形がよくありました。私がいままで見ていて一番多かったセットは「切紙」「目録」「皆伝」に何巻か法伝の巻物がつくものです。明治以降でもこの形式で出ているものもあります。
「甲冑伝書」や「小具足伝書」などはほとんど出てきません。表題に小具足と書いているのですが、なぜか全く違う内容だったりすることもあります。こういう場合、流儀内の人間ならあるニュアンスを感じるものです。ふーん。皆伝に相当する伝書が全く別ということもあります。これも「ふーん」です。
外に呼ばれて行って護身術などを教えると切紙と目録とを一緒にしたような免許を作って、「中段免許」と称して出すこともあります。これはうちでは出稽古などの場合で、正式に通っていただいている方への出し方ではないです。この免許が出ていても伝授の技が伝わっている可能性は少ないです。私のお会いした方で、基本二十一箇条も教わっていなかったのですが冬季に講習で取手だけを習って目録伝書をいただいた方もいらっしゃいました。
結論として、同じような伝書がそこにあったからといって皆同じことを習っているわけではないというのが私たちの流派なのです。ここはしっかり押さえないとうちの流派のことはわからないです。
