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10) 柳生心眼流の免許体系2 免許の基準は身のかわし
前回、同じような免許があっても習っている技は同じではないという話をしました。ではその人がその免許をいただいたというのはどういうことを示すのでしょうか。これはその人がどのくらい流祖の教えようとした体の動き、つまり「身のかわし」をできるようになったのかということです。星家の流れではたとえば切紙は形をある程度正確にとれて勢いがましてきたこと (技が切れてくる) を師匠が認めたことになります。目録では相手に対応して自分も自由自在に速く動ける (どのようにも動く) ようになってきたということです。このように私たちは身ごなしで段階を決めています。もちろん完全ということではないです。その段階に入ってきたということです。私は少し前でも免許をお出しすることが多いです。多くの方々に次の世界に触れていただきたいからです。
星家の流れではだいたいの場合、柔術の技である基本二十一箇条によって身のかわしを見ます。実はこういうことは柔術でも、剣術でも、棒術でも同じですので、何を教えても同じように段階をみることができます。
なかなか分かっていただくのが難しいのですが、柳生心眼流兵法というのは、柔術で入っても、剣術で入っても、他の武器術でも、初めから結論をお出しする形になっています。これは稽古しているうちにわかってきます。学校でも同じテーマを学ぶときに、先生によっていろいろな異なる教材を使って教えたりしますね。流祖も習う人の好みや特性に合うように教えたので、もともと技は同じでなかったのです。こういうことをある程度体系化するには2、3代かかったろうと星国雄宗家もおっしゃっていました。でも何度も言いますが「身のかわし」は一緒。だから柔術でも、剣術でも、棒術でも、居合でも流祖の伝えたかった「身のかわし」は教えることができます。習う人はこれらをしっかり学んで、自分なりに応用することで身を守っていくことができるようになります。
一方、このあり方は問題点もあると思います。当身が好きな先生は当身の技が多くなり、体当たりの好きな先生は体当たりが多くなり、武器術の好きな先生は武器術が多くなるともいわれます。どんどん技の数も内容も変わっていってしまうという可能性を常に持っているのです。このようであるため柳生心眼流は一見いろいろあるが、なんだかよくわからないように見えるのです。この問題は後に触れたいと思います。しかし根本の活人剣の心と身のかわしは一緒なのです。本来いかようにも変化するものなのです。
こういうのはとても禅的です。流祖に会いたければ、活人剣の心をもって正しい基本二十一箇条の形をひたすら稽古していると流祖の心に触れることができると思います。ただしそんなすぐにはできないですよ。一人よがりにならないよう、なるべく道場に来て先生や先輩の話をよく聞き、動きをよく見て、実際に相手と組み取りして上達していく。それがいつも稽古の王道だと思います。