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11) 柳生心眼流の免許体系3 「裏は広い」 その1
そもそも免許とはどういう意味でしょうか。免許のもともとの意味は許可することです。昔の師匠は「誰々に目録を許した」という言い方をしていました。「そろそろ次の段階のことを習ってみましょう」という許可です。武道も自分の固定概念にとらわれていて、自分だけでは上達できないことがよくあります。教えてもらって気づく。「え、そんなことってあるの?」と思う。つまり世界が広がるということです。自分では気づいていない世界を気づかせていただく。これが大切です。
私自身はいろいろ教えていただいて「自分ではこんなこと思いつかなかったよな」という思いが多々あり、ただ一生懸命に先生についていきました。
星国雄宗家も「甲冑術は星国雄が作ったものだといわれるが、もしそれが本当なら俺は天才だ」「相伝を許されたとき、これはすごいことだぞと思った」とおっしゃっていました。そう、並の人が考え付く事ではないです。私のように才能のないものが習う。歴代の先師様たちもそういう思いでここまでもってこられたと思います。流祖や先師様たちがいらしたからこそ、またそれを支えてくださった方々がいたからこそ今私たちが習うことができる大切な技です。自分で考えられる天才の方はうちで習わないでいいと思います。自分で技を編み出せばいいのですから。
私は武道だけでなく茶道、能楽、書道なども習ったことがあります。茶道では免許は「その段階に達した」ということを証明するものではなく「次のお点前を稽古しはじめましょう」ということです。能楽なら「難しいですが次の曲を稽古しましょう」「次の仕舞を稽古しましょう」という許し状です。日本文化はそういうところがあります。いただいて終わりということではなく、どのことがらも頂いたら一生かけて修行して深めていくものです。
武道であれば技は代表的な状況についてなので、まずそれを正確に覚え、その間を埋めて千変万化に対応できるようにするのは自分です。このことを伝書の裏側が白紙なのにかけて、「裏は広い (白い)」といいます。いろいろなことに気づいてできるようになるには時間がかかります。それを「心が育ってくる」といいます。そうなるまで師匠も待つべきだといわれています。星国雄宗家は「待つのはつらい」とおっしゃっていました。教えたいが、それでも心が育つまで待つ。このように少しずつ教えていくのが伝統的に方法です。彦十郎先生も星国雄宗家に「なんでもチャンチャンと教えるものではない」とおっしゃったそうです。ですが全く教えないで黙って待っているわけではないのです。それができるようになるために、ずいぶんいろいろなアドバイスがある。これが口伝として集積されているのです。