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23) 柳生心眼流の免許体系15 何をしてもいいわけではない。
生きるためには何でもしなければならないです。好きなことばかりしていては生活費を稼ぐことはできないです。戦うときには方法も物資もなんでも使って全力で戦わなければなりません。しかしこれにはおのずと法 (法度) があります。
私が大学生のころ、ある柳生心眼流の師範が私にも他の学生にも言っていたのは「武道は殺し合いだ。殺し合いは勝てばいい。勝つためなら何をしてもいい。」ということでした。そういう先生には私は就きませんでした。ただ古武道界ではいろいろな考えの流祖様がいらっしゃるので、他流ではそういう主張の方もいらっしゃるかもしれないです。
さて、これは柳生心眼流の心法でしょうか。これを少し検討してみたいと思います。結論としては星国雄宗家もそのようなことはおっしゃったことを聞いたことがありません。歴代の先師様もそのようなことをおっしゃったという話も聞きません。
もともと柳生家は周りが大きな勢力に囲まれていましたから、道義に反するようなことをすればいつでもつぶされるという緊張感の上で、領地領民の安寧を守るにはどうしたらいいかを考え続けました。柳生石舟斎も仁義礼智信の大切さを説きました。まずは石舟斎兵法百首を参照してみます。
「兵法の極意は五常の義に有とこころのおくに絶ずたしなめ」
「兵法は弟子の心をさぐりみて極意はおろかにつたへはしすな」
「兵法のよう (用) をば内につつしみて礼義の二つに心みだすな」
「人をきらん心はしばし兵法にわれがうたれぬならひ (習) してまで」
「おんりゃう (温良) やけうけんしょう (恭謙譲) は新陰の兵法のはっと (法度) 極意成りけり」
「世をたもち国のまもりと成人 (なるひと) のこころに兵法使わぬはなし」
「兵法の師となるならば弟子にまずはっと (法度) ををしえ (教え) 心よくみよ」
「兵法師仁に心のなかりせばくらゐ (位) 上手のかひはあらじな」
「兵法の極意に仁義礼智信たへずたしなみ機遣をせよ」
「つねづねに五常 (仁義礼智信)の心なき人に家法の兵法印可許すな」
いずれも兵法に仁義礼智信の五常や温、良、恭、謙、譲などの徳目 (論語にあります) が心にあることが大切であることを指摘しています。戦乱の中で幾たびも出陣し戦地戦陣で過ごした人の到達点とはこういうことでした。何が大切かといえば、こういうことだと言わざるを得なかったわけです。
柳生宗矩は沢庵和尚に禅を学びながら「ちいさき兵法」から「大なる兵法」へ自分の心を変えていくよう説きました。「負けぬ術を存じ居る」とも言いました。柳生宗矩が徳川家康に仕えてからどれだけ国の安定のために無心の働きをしたかは皆さんもよくご存じのことと思います。
流儀の伝では流祖も「天地和合」とおっしゃいましたし、伝書には「弱くとも道あれば強きにまさる」とも書いてあります。道心こそ大切です。活人剣の心です。逆に「強くとも道なければ弱きに劣る」とも書いてあります。桃生の師弟合祀碑には流祖が「介于石 (かたきこと石のごとき)」、あるいは「言顧行 (言いて行いをかえりみる)」人だったと桃生の人々の間で伝わっていたというのです。介于石は易経の言葉で実直なこと、言顧行は中庸の言葉で自分の言ったことを自分自身がしっかり出来ているかをいつもおのれに問うことです。
