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24) 柳生心眼流の免許体系16 武道は戈 (ほこ) を止める道
そのような流祖の生き方を二代は「水魚剣」の下に「鏡裏に物を照らすが如し」と著語して表しています。「物 (もの)」とは今の日本語では物質のように思ってしまいますが、別の意味もあります。物とは衆生、つまり生きとし生けるものという意味でもあるということです。仏教に詳しい方はご存じと思いますが、こういう用例はすでに古い中国の禅や浄土教の典籍にあります。もちろん日本にもあります。密教でも同様のことを指していたりします。衆生世間ともいいます。相手、すべての人々、世界を自分の心という鏡に映していくことをいいます。たとえ敵であっても。みな共に生きている。流祖の眼はいつもそのように世の中を見ていました。神仏が見ている。そうしたらあなたはどうするのか。それを問うています。二代はまた「実之人 (まことのひと)」に伝書を渡すようおっしゃっています。「小具足以上は口伝が多い」といわれますが、実はこういう話がたくさんあるのです。先生からお茶を飲みながらあるいは稽古への道すがらたくさんのお話をいただきます。
柳生心眼流兵法なら生きるためなら何でもします。しかし何をしてもいいわけではないです。彦十郎先生も「そこまでしなければ自分が負ける。しかし考えることだ」と示されています。星先生は「我も人、彼も人」とおっしゃっていました。
ここはとても難しいです。苦心することだといわれています。これが分からないと柳生の心もわかったことにならないし、柳生心眼流兵法の心法でもなくなってしまいます。正しい心に技を映す必要があります。同じ技もゆがんだ鏡、曇った鏡に映せば違うものが映ってしまいます。
兵法とは生きること、生活していくことです。共に。先に示したように石舟斎は「兵法の極意は五常の義に有とこころのおくに絶ずたしなめ」と詠んでいます。極意は「義」だと。星国雄先生は「武道は筋だ。筋を違えるな」とおっしゃっていました。
自分さえよければ他人はどうなってもいいということではないです。実権さえとってしまえばあとは師匠を横目に自分がしたいことをするなど問題外ですが、皆がよくなるには自分はどう動けばいいか、何を選択するか。それは大変なことです。完璧なのは神仏しかないでしょう。しかし先師様方も少しでもそうなるよう努めました。これは頭の中にある概念でも哲学でもないです。失敗もあるでしょう。自分で実践してその深さや困難さを思い知らされるものです。星宗家はたびたび「人を活かすことは難しい」とおっしゃっていました。この自我が自と他を区別しているぎりぎりのところの心法は本当に大切であり難しいのです。
もし柳生心眼流兵法に「勝つためなら何をしてもいい」という心法があるというなら、出典を示していただきたいです。どこにありますか? あるいは先師様方の言葉とか。言葉からそのような心が窺われますか? その心に技を映すとどういう行いが現れでるのでしょうか。いろいろと疑問がわきます。ぜひ示していただきたいです。
歴史的に見ても現在でも各所で言われているのは武道は殺し合いではなく、殺し合いを乗り越えるのが武道 (戈を止める道) と言われていると思いますがいかがでしょうか。