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38) 柳生心眼流の免許体系30 「出た技は皆本当の技」の落とし穴 2
「出た技は皆本当の技」のもうひとつの落とし穴は、「自分は知っているから」「皆伝だから」とその練習も稽古もせずにその状態に居ついてしまうことです。
運動をしている方であればあたり前のことですが、稽古しなければ居つくどころかどんどん退化してしまいます。当たり前です。運動療法でする筋トレも、すれば一時的に効果がでますが、しなくなればまた元の状態に戻ってしまいます。
実は武道では一本習ったら、それをどんな状況でも使えるようになるまで稽古するのが本来であるという考えがあります。そういう厳しいところがあります。だから教わった技を稽古もせずほったらかしにして、あるいは忘れてしまい、深めようとしないのは教わる側の責任です。
仏教では「医師が処方した薬を飲まないのは医師の責任でなく患者の責任である。同じように仏が説いた教えを実践しないのはその人の責任である」とお釈迦様がおっしゃったと伝えています。稽古するのは基本的に弟子の責任です。「先生がよく教えてくれないから」の言い逃れは理由にはなりません。たくさんの技を習いながら、その域に達しないのにまだ教えてほしいを続ける人はやがて限界を自分で作ってしまいます。
戦陣で鎌ひとつしかない時に敵が刀をもって攻めてこられたら、鎌1つで相手がどう来ようと対応しなければなりません。むかしはそんなにたくさんの技は教えていただけないこともありましたから、いただいた技をそのくらいまで稽古しつくすのです。稽古しきるのです。相手がどう来ようとその一本で対応する。一本の技だけ先生からいただいて、一生涯その一本で自分の身を守りぬくというあり方です。「一箇条」といわれるあり方です。どうかわすか、どう攻めるか、ときには石を拾って投げたり足で土をひっかけたりするかもしれないです。こういうことができたとしたら、とてもすばらしいです。そういう人をこそ真に恐れよといわれています。真の武道家です。
ですが実際にはそういう人に全員がなれるかということです。大部分の人は一本習ってもそれを使えるようにはならないでしょう。私もそういう中の一人です。武道も自分で強くなれる天才がいるわけですが、ほとんどの人にとってはそのようなモデルは自分のモデルにはなりません。天才なら柳生心眼流など習わなくても才能で強くなれると思います。
多くの人にとって、技をまずは正確に習い、いろいろな機会に練習し、先生に批評をいただだきながら、自分でもいろいろな角度から検討を加えて、古人の心に近づくようにすると、いつのまにか自分のこころから同じように技が出てくるようになるのです。これによって自分の身を守ることができるようになり、自信もつきます。決して今の自分の状況対して無理はしないでいいです。無理から離れて積み重ねることが大切です。積み重ねることが大切なのです。桃生の師弟合祀碑でいう「秉心塞淵」です。
このような態度とは逆に、出た技はすべて本当の技だから、昔習った技をろくに稽古もしないで演武会でちょと演武しても本当の技というのはどうでしょうか。もはや間違いであることはわかると思います。技そのものを軽視していますし、ご覧になっている神仏にも流祖にも、いらしていただいた観客の方にも申し訳け申し訳ないことです。もちろん昨今の忙しい環境では十分に時間をとって稽古することは難しいことも多いです。自分で考えても仕事との両立は結構難しいです。ですができるだけ努力をするという心構えは大切です。
まとめますと「出た技はみな本当の技」という言葉は安易な現実肯定に使われてしまうことが多く、注意して使う必要があります。
