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2025-12-24 22:49:00

39) 柳生心眼流の免許体系31  常の心 

習った技は一生かけて稽古してみがき、深めていく必要があります。こういうことができている方はお姿を見、話しているだけで分かるものです。みなそういう緊張感の中で暮らしていらっしゃいます。これは過度に張り詰めた緊張感でもなければ、リラックスして弛緩した心の状態でもありません。良い状態を維持して積み重ねていくのです。私も来年還暦ですが、武道界にはここからもさらに102030年と積み重ねて道を歩いている先生方がいたくさんいらっしゃいます。禅では「さらに参ぜよ三十年」という言葉があるそうです。話をお聞きしていて私も嘆息することがあります。こういう先生方と話して初めて皆伝者同士、武道家同士の話になります。ここはもう言葉は違えど武道として共通なものを持っています。「分けのぼるふもとの道はおほけれど同じ雲井の月を見るかな」です。

ではどうしたらいいでしょうか。宗矩は兵法家伝書で「みがかざるあらたまは塵ほこりがつく也。磨きぬきたる玉は泥中に入てもけがれぬ也。修行をもって心の玉をみがきて、けがれにそまぬようにして」と述べています。私たちの流れでは「人は最初に白い玉として生まれ、いろいろと色がつくが、また白い玉に戻っていく」と言われていて、この白い玉というのは戻っていくべきところのことです。人には生まれたらかならず戻っていくところがあります。ですが初めのあらたまと、後のみがきぬきたる玉とはもともとの材質が同じであっても異なるものです。ですので戻っていく前にやることはたくさんあります。外界からの情報によっていろいろな色が付き、自分でも色を付けていきますが、これを「心の病皆さって、常の心に成て、病と交わりて病なき位 (自分の限界や世の状況を知りつつ、それはそれとしてまた常の心にもどり、自分のできることを積み重ねて完成させていく) までさらに磨いていくのは自らの努力にほかなりません。自分の限界、世の中の変化に遭ってもそれにくらませられることなく、常の心に戻り、自分の限界から逃げずに向き合って解決策を見出していく。この常の心に戻るのは、私たちの流れにとっては基本二十一箇条をとるのが最良だと思っています。流祖の活人剣の心と身のかわしそのものだからです。だから尊いのです。変えてはいけないのです。

稽古というのは決して無理することではありません。星先生も「無理はするな」と常々おっしゃっていました。しかし自分のできる範囲で続けてくといろいろなことがらについて、「ああ、そうだったか」とわかる時がきます。何十年先のときもあれば、数年先のこともあります。流祖や先師様方を信じてただ積み重ねていきます。兵法家伝書では「(水鳥) が水かきをつかふごとくに (外には稽古している、努力しているというそぶりもみせず) 内心に油断なくして (稽古を続け) 、此のけいこつもりぬれば、内心外ともにうちとけて、内外一つに成て少しもさはりなし。この位に至る」と書いてあります。その位にとどまってもいけません。通り過ぎて跡形なしです。こういうことは1回だけということではなく一生に何回も起きてきます。私たちの流れでは「はっと気づく」と言われています。「ああ、そうなんだ」「ああ、そうだったか」とわかる、腹おちする、納得する、了解 (りょうげ、りょうかい)する、理解する、体解 (たいげ)する、本当にわかるといってもいいでしょう。外からの言葉や概念上で「知っている」が本当に自分のものになっていく瞬間です。何度も何度も気づきながら歩いていきます。その前提として常の心を保つことはとても大切なのです。どのように速く力強く動いても、心を保って自分と相手の心と体の状態と関係性を観察し続けることをやめてはなりません。いざというときはそういう心の状態をつくるのではなく、二十一箇条を取っているときのいつもの心に戻っていくのです。