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40) 柳生心眼流の免許体系32 無心
兵法家伝書では言葉を尽くして説明しようとする宗矩の心が本当によく現れていて、こういう書物が残っていて、私たちが参照 (伝統的な言葉としては拝読) できるのはありがたいことだなと思います。結論としては「常の心を無心とは云なり」なのですが、兵法家伝書のかなりの紙数をあててそれがどういうことであるのかを、いろいろな場面、方面から言葉を尽くして説明しようとします。
「いつとなく功つもり稽古かさなれば (いつということはできないが稽古を積み重ねていくと)、はやよくせんとおもふ事 (もはやこうすればうまくできるという計らいのこころも)、そそとのきて (さっとどこかに行ってしまい) 、何事をなすとも、おもわずして無心無念に成りて、木で作りたる道幸の坊が曲するごとく (操り人形が自然に動いて素晴らしい劇を演じるように) に成たる位也」「この平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云うなり」とあります。
本当にこうなれればいいのですが、私にはまだ先のようです。ただ目的地は定めて起きないと別のところに行ってしまいますので、目的地を説示されることはとても大切です。宗矩も「すくなる心をば本心と申也。又は道心とも云也」「わが本心をさとり得て其本心にわがなすわざの、かのう人は床しき也。」といいつつ、すぐに「此のこと葉、われよく心を得て、如此いふにあらず。如此いふといへどもわれも心のすぐにしてすぐなる心にかなふごとくに進退動静する事は、難成事なれども、道なればしるす者也。」と書いています。有難いなあと思います。道であるからここに記す。宗矩も流祖も道なればこそ目指して進みました。先師様たちも。そして及ばずながらではありますが自分たちもです。
「位」とは状態のことです。「木で作りたる道幸の坊が曲するごとく」とは難しいたとえですが、操り人形にもいろいろと雑念があったり、糸のつなぎ方や内部の構造が問題あれば、操者の言うことをきかず変な動きになってしまいますし、演劇も成り立たないです。基本二十一箇条も何か余計なことを考えて取っているとそのような動きになってしまいます。ぎこちなかったり、気合が途切れたたり、わざとらしかったりして、理にかなった自然な動きになっていません。
まず操者である自分の「心」から自然に「機 (はたらき)」 が現れて「用 (効用・効果)」 につながっていく状態がよいのです。この場合も常の心は大切です。宗矩は「常の心をかえて新たに生ずれば形もあらたまる程に、内外ともに動く也」「動転する心にてよろずをなさば、何事もしかるべからず」といっています。
このほかにも宗矩は「胸に何事もなき人が道者なり」「無心とて一切心なきにあらず、ただ平常心」などと「無心」をなんとか伝えようとしています。この「無心」こそは私たちの流祖も繰り返しおっしゃっていたことと推察されます。なぜかというと、どの伝書にも出てくるほど大切な教えだからです。流祖が宗矩からいただいた武道における「安心」こそ、どのような大変な状況にあっても「なすべきことをなす」こと、つまり「無心の大事」であったと私は考えています。
「無心」といえば一言ですが、内容はたくさんの言葉を用いても説明しきれない心です。でも説明しないと伝わらないので、みな言葉を尽くして伝えようとします。伝書では「実 (まこと)」「道」「兵法の道」、「大兵とて恐るべからず」、師弟合祀碑では武道を稽古する効用は「知命 (自らのすべきことがわかる)」であると流祖が述べたことが書かれています。南部藩に伝わった流れでは「せく心は月を詠むるがごとし」と書かれていて、目的に前のめりになった状態のことではいけないと諭しています。
何のために無心の心になるのかと言うと、私たちのながれでは「危急においては生きるこころ、平生においては活かすこころ」と2つのこころに集約されています。自ら生き、人々を助けていくことが無心のはたらきであって、兵法であるということです。つまり活人剣です。
ブログの更新は今年はこれで最後になります。辛口なことも書きますが、一方で楽しんでいただければという思いもあり努めております。これからも年々いろいろなことが起こってくるとは思いますが、まずは年を越せることを感謝したいと思います。皆様もどうぞよい年をお迎えください。
