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46) 柳生心眼流の免許体系38 翁の心胆に適う
うちの流派ではここがとても大切です。教わったことをもとにして、いろいろな経験も積み、各自が自分のこととして自分の心と体で技と心を開く必要があります。「翁の心胆に適う」というものです。そうなるには一般的に時間がすごくかかります。二代もかなりかかったようです。(兵法書には数十歳とあります) 開いた人同士であればお互い多少の違いがあったとしても、「そう、その通り!」と思えるほど同じように考えているし、先生と全く同じようなことをその方の言葉でいうのを目の当たりにします。これは不思議です。私の門人の方々が開けるようになるのは、私があの世に行ってからかもしれません。でもいつか分かってもらえると思って託していきます。それくらいこの流儀の心法刀法を理解するのは難しいのです。しかし私たちの流儀はこういう伝わり方をしてきました。これははっきりと申し上げます。私たちの流れにおいては流祖以来の伝統です。口伝上も伝書上も、また史料によっても明らかです。流祖からこの方法で伝えられてきたのです。
桃生の『師弟合祀碑』にもそれをうかがわせるものがあります。「誰か復た業を創り百世の師を継がん」の句です。業を創るとはいざというとき (危急)、また日常生活や仕事 (平生) において、自分から本当の技 (自他を救うはたらき・自他を利するはたらき) が出ることです。その人でしか出せない (固有の)、他人が盗むことのできない技 (その人だからこそ出来るわざ・はたらき) は流祖の心胆を真底理解ができなければ生まれてきません。流祖の得た活人剣の心をもって使い出す技です。このところは依頼主の遠藤春良が銘文を作った新井義路に流祖の言葉を話したのだと思います。新井義路はそのような流祖を「百世師」(百世に一度出るかどうかの師,稀代の師) と誉めています。そんな方の理解がそう簡単にわかるわけもないのです。でも、そうやってまた継いでいくのです。だれが流祖の心技を創りつづけ流祖を継いでいくのかということです。問い続ける。創り続ける。「銘じて曰く」ですので私たちは常にそのことを心に刻んでそうなるよう努めなければなりません。
流祖の師である柳生宗矩についてみてみましょう。元亀2年 (1571年) 生まれ。若いころから父について兵法を学び、文禄3年 (1594年) 24歳で老齢の父に代わって徳川家康に仕官します。関ケ原の戦い (慶長5年 1600年 宗矩歳) は宗矩30歳の時でした。このときは家康の命で大和に戻り地元の豪族や有力者が徳川方につくよう活動し、翌慶長6年 (1601年)に徳川秀忠の指南役になっています。
慶長20年 (1615年)の大阪夏の陣で徳川秀忠の兵法指南役かつ警護役として従った宗矩が秀忠を急襲した敵7人を斬ったというのは45歳とのことでした。ここから元和偃武となり、本格的に徳川の世になっていきます。沢庵和尚との出会いもこのころです。大阪夏の陣で流祖も宗矩の馬引きをしていて、急襲の折は槍をもって加勢したと伝えられています。ですので流祖が宗矩のもとに師事するようになったのは1601年から1615年の間と推定されます。秀忠の兵法指南役でしたが、このころは基本的には立合いと口伝での伝授だったと考えられます。
柳生宗矩はその後『兵法家伝書』(寛永9年 1632年 宗矩62歳) で「漸く知命の年 (50歳) を過ぎ、此の道の滋味を得たり」と書き残していますので50歳頃から自分の理解について書き著すようになっていきました。渡辺一郎は『兵法家伝書』(岩波文庫 1985年) でこのことを「みずからの兵法を客観化することができる境地に至った時期にあたり、相次いで長巻の伝書を作成していった。」と評しています。時代背景もあったと考えられ、茶道でもこの時代に今まで口伝で伝わってきたことを書き留めていこうという活動、つまり伝書化が始まっています。
元和7年 (1621年) 、51歳の時に宗矩は家光の指南役になります。家光は当時18歳でした。まもなく将軍になる家光のために宗矩が53歳の元和9年2月2日に書き上げ提出した『兵法截相心持の事』(『改訂 史料柳生新陰流 (上)』今村嘉雄 新人物往来社 1995年)の後書きによると、「今日迄は是より外は残申さず候事、起請文を以て申し上げ候」つまり、わさわざ「今日まではこうです」と言っているわけです。ということは今後もさらに新しいことが出てくることを否定していません。宗矩自身もさらに工夫し続けるからです。日々新たです。
その師であり親であった柳生石舟斎も晩年まで工夫を続けていきました。柳生石舟斎はこのことをあまり書く事はしませんでしたが、口で伝え、このような工夫や言説はのちに柳生十兵衛によってまとめられていきます。柳生の流れとはこのようなものであると言えます。みなさんもこういうことに自分を引き当ててみてください。
今はわかなくても何十年してから「ああ、そうか」「なるほどその通りだ」とわかったりするので、心にとめておいてほしいと思って師匠は話しています。技もそういうところがあります。どうしてもうまくできないものが、あるときふっとできるようになるものです。星国雄先生も彦十郎先生から相伝の稽古をつけていただいていたときは、自分はその動きが出せなかったとおっしゃっていました。あれほどの大先生でもです。気づき納得していくことはいつ起こるかわからないですが、続けているといずれそういうときが訪れます。何度も気づいたりします。そこにとどまらないで先に進みます。「俺のような鈍感な人間でもそうなるんだから、君たちも必ずできるようになる」とおっしゃってくださいました。
