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58) 柳生心眼流の免許体系50 万法と侶たらざるもの
ブログを始めてから1年がたちました。ふと見るとホームページ来訪者の方の数が16万回を超えていた。ありがとうございます。こういう話は眠たいだけかもしれないですが、とても大切だと思っています。星国雄先生も稽古の半分は座学、半分は実技で「うちは心法と刀法は半々」ともおっしゃいました。ブログの内容を少しでも読んで柳生心眼流とはこういう流儀ということを理解してくださる方がいらっしゃれば私の努力も無駄ではないと思います。原型からいろいろな形が発展していくのは良いことだと思いますが、原型は原型だからこそ大切。星国雄先生もそのことをいつも意識していらっしゃいました。
「分け登る」の歌の対になるのが「浮草をかきわけ見ればそこに月。ここにありとは誰か知るべき」です。私たちの流れでももともと対で書かれていましたが、星国雄先生によると、「分け登る」の歌は「初心の人を励ますため」にいつしか早い段階で示されることになりました。
従って「浮き草」の歌はうちの流派ではかなり上になってから出てくる歌です。兵法としての意味はここでは説明しません。ただ心法としても非常に大切なので、少しここで話題にしようと思います。
唐の在家修行者であった龐居士は馬祖禅師に「万法と侶たらざるもの、是れ什麼人ぞ」つまり「この世がどうあっても惑わされず仏の道を生きていく人とはどういうひとですか」と聞きました。これは通仏教としてしてはよく蓮華にたとえられます。泥から生まれて泥に染まらずして美しい花を咲かせる。法華経、華厳経、理趣経、いろいろなところに出てきます。仏教者としてこの世を生きていくときの切実な問題です。この世を娑婆(しゃば)といいますが別名は忍土ともいわれて、思い通りにならない現実がいつも目の前にあります。龐居士も心が揺れてしょうがなかったのかもしれないです。そこから離れて、自由自在に神通を起こせる人はどのような人でしょうかという問いです。
しかし、その問自体が実は自他の対立が前提で問を発しています。それに対して馬祖禅師は「私もお前と同じように、万法と共にはしていない (我もまた汝と共に侶たらず)」と答えます。つまり自分もそうだと返しています。しかし意味合いとしては同じことを返して「本当にそうか?」と問うているように感じられます。まさに相手の心の動きを「写し」ています。もともと別の個体ですから他人と同じではない。でも自分だけで生きている人などいません。今の世をみれば世界中とつながっていることは明らかです。みなつながっています。時間的にも空間的にも.そして心も。こういうのは「ぶっ通し」といわれます。
