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59) 柳生心眼流の免許体系51 他国の塵境に去来
なぜ心が振れているのか、振れているものの正体はなにかをつかむのが禅の大切な所と言われています。実は自分は万法のなかでいつも自分以外と一緒なのですが、自分と他 (自分以外、世界) を区別している心があります。その心に心を奪われると、心はあちらこちらと動き回り、そのことに振り回されて問題を生じます。それではどうするか。
道元禅師は『普勧坐禅儀』で「なんぞ家の坐床を抛却してみだりに他国の塵境に去来せん」とおっしゃっています。自分より外の事物が何かしてくれることを求めるのではなく、自分の心を見つめ、自分がなにをすべきかを考えていく。そして坐禅や作務など日常の修行を続けること (行持) の大切さを『正法眼蔵』行持の巻で本当に多くの紙数を費やしてたくさんの禅者の事例を引いて熱く説いています。行持の巻では「東西の風に東西することなかれ (いろいろなところから吹く風に心を奪われて右往左往してはいけません)」とも述べています。別の禅語では「八風吹けども動ぜず」というのもあります。目の前のものにまず集中して一つ一つ行っていく。
仏教共通の教えで『七仏通戒偈』というのがあります。お釈迦様とそれ以前の7人の仏様の共通の教えと言われるものです。「すべての悪いことをしない (諸悪莫作)、良いことに励む (衆善奉行)、いつも心をみていく (自浄其意)」「それが諸仏の教えです (是諸仏教)」と4つの句があります。「自浄其意」は自分の心を浄化するとのみ思っていると表層的になってしまいます。うれしいとき、悲しいとき、どのような機会にも自分の良いところ、悪いところ、問題点に気づき学んでいく。心が折れた時も、割れるほどの悲しみを経験してさえ、何かに気づき、何かを学び、また立ち上がります。こころがそういう性質をもっている。すべきことをする。お釈迦様は心に刺さった矢を自分で抜き再び立ち上がれといいました。
龐居士に「神通並びに妙用はただ水を汲み柴を運ぶのみ」という言葉があります。禅で神通とは空を飛んでいくことでも水の上を渡っていくことでもなく、まわりの人の心が分かりそれに適切に対応することができること。のどが渇いた人に、適切な温度のお水やお茶、疲れた人に椅子を用意する、そんな気遣いができることを神通というのだそうです。
兵法においてもいろいろと外をたずねたけれども、それはその人に必要なものだったのですが、いろいろ知ったうえで、自心に立ち戻っていきます。それぞれの兵法者としての在り方があります。誰ひとりとして同じ人間はいませんし、師匠と同じことをまねていればいいということではないです。「浮草をかきわけ見ればそこに月。ここにありとは誰か知るべき」です。石舟斎の目録にある「中なかに なをさとちかく (里近く) なり(に) けり あまりに山のおく (奥) をたづねて」も同じ風光を歌っています。
そして間違ったものに戻ってしまわないよう絶えず注意が必要です。宗矩は『兵法家伝書』で「それ身のおこなひすぐ (直) なるべし。すぐならずば明らめたる人とはいひがたしと也。すぐなる心を本心と申す也。又は道心とも云也」と述べています。私たちの流れでいう「まっすぐな心」です。そして身の行いもまっすぐでなければならないと言っています。兵法において身まっすぐ、心まっすぐ、刃筋もまっすぐであるように、また生活もそのようにと教えています。
