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2026-06-02 00:34:00

61) 柳生心眼流の免許体系53 本心 

禅でいう本心はその妄心の奥底にひろがる形のない心。ありのままを見、感じる心。通仏教的には無分別心ともいわれます。そのような心で自分や世界を見、感じると、ありのままの世界を自分が受け入れている。自分が包まれている。自分もその中にいる。そのありのままを明歴々、露堂々、浄裸々、赤洒々などいろいろな表現でいわれます。この本心を本来から清らかな心 (自性清浄心) ともいいます。清浄、つまり清らかといっていますが一般でいうところの浄不浄を超えた世界です。言葉で表現せざるを得ないのでそのように表します。

たとえが適切かわかりませんが、日の光があたろうと暗闇だろうと、そこにものは厳然としてあります。空気は見えませんがそこに間違いなくあります。暗いか明るいか、見えるか見えないかで検知して判断しているのは自分の側の概念としての受け取り方です。明るいか暗いかも、人間の物差しで決めたものです。それをありのままに覚知する心が人には備わっているといいます。それを本心と言います。そして本心というものは誰にでも人として生まれれば、それどころか心を持つものすべて (一切衆生)に 備わっているものだと仏教では考えます。

「衆生」ということばのほかの中国語訳に「有情」というのがありますが、これはまさに心 () をもったものという意味です。チベット語で衆生は「ドワ」といいますが、心、つまり意思をもって動くもの、歩くものという意味です。そして、この「もの」が「物」です。「衆生」も「有情」も「物」もすべての生きとしいけるものを指す言葉です。「物」とは最近では物質を指すことが多いですが、それだけではないです。ここを間違えると兵法書の「鏡裏にを照らすが如し」の真意を正しく受け取ることはできません。

私たちの妄心の下ではたらくもっと奥深いところにも実は心がある。唯識ではこうした心の階層を8つに分けて説明します。このことは十兵衛が『月之抄』で言及していて、これを十兵衛が宗矩に質問したら、「難しいので沢庵和尚にお聞きしてみろ」と答えたことが載っています。この言葉や概念で現れる世界より深いところにある心、禅ではここに聞け、ここに尋ねよと言っています。これは体験 (感じる、気づくもの) なので、頭で理解しただけでは本当の理解 (体解・了解などといいます) とはいえません。正しい師について参禅弁道すべきものです。