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63) 柳生心眼流の免許体系55 流れに遵いてその性を認得す
下の二句 (流れに遵いてその性を認得すれば、喜びも無く亦た憂いも無し) を通仏教的に解釈すると、「心がたえず千変万化していく流れに逆らわず、その状況に随うように心を観察していくと、そこ(転処) にはどこを見ても、前も中も後も、つまり過去も現在も未来も、何かの心がそこにとどまってあるという状態を見つけ出すことができません。どこにも辺際 (区切り) がどこにも存在しないということに気づきます」ということでしょうか。
たとえてみれば昔のフィルム時代の映画は1こま1こまの写真の連続でした。これを連続して見せると人間の頭が錯覚して動いているように見えますが、それがいつまでも続いていくのに似ています。心には初めも終わりもなく、どこからが生まれた、どこからが住した、どこからが滅したという区切りもありません。数えきれないほどの遠い昔 (無始以来) からそういう連続していく心を心相続とか清浄な数珠といったりします。
現象そのものは実際には明歴々、露堂々、浄裸々、赤洒々と形容されるありのままの存在であるものを、それを受ける心 (つまり妄心) が言語・イメージ・概念つまり戯論として認識し活動しているものであるということが分かります。それは本心 (よく鏡にたとえられます) の中に映る映像のようであるとたとえられます。喜びと憂い、是と非、行くと来る (去来) 、私と私以外などの概念は映像のように現れては消えていく存在・性質 (性) であると理解できます。絶対的にあって固定されたものではない。自性がないとも表現されます。これが「喜びも無く亦た憂いも無し」になります。実際には喜びも憂いもあるのです。しかし、これらは固定 (常住主宰 ずっとあって、他に依存しない) されたものではないということです。もっときつい言い方では (自分の思っているようなあり方で何かかがあると思ったら大間違いで) 「ありもせんこっちゃ」とおっしゃった禅匠もいらっしゃいます。
これはいろいろなお経で示されていて、たとえば幻のごとくとか、陽炎のごとくとか、夢のごとくとか、影像のごとくという喩えで示されます。存在とはそういうあり方で存在しているのだということです。沢庵和尚は亡くなる直前に「夢」と書いて遷化しました。
誤解してほしくないので申し上げますと、幻や夢だから虚しいのではないです。お経では「虚」と表現しますが、これは真実 (勝義、第一義などといいます。さとりの世界です) ではなく仮のもの (世俗、仮、中、仮設、施設などといいます) だということです。たしかに古典作品にもこの世がはかないと書いてあるものはたくさんあります。悲しみに触れたときはそのような心が出てくるのはやむをえないのですが、それだけなら涙にくれと終わってしまいます。仮に現れているものだからこそ自分も状況も行動や努力次第でよくもなり悪くもなる。実際にはここがとても大切です。「本来無一物」ともいわれますが、「無一物中無尽蔵」ともいわれます。禅だけでなく密教も心のもつ限りない生命力を教え、浄土の教えでもまた阿弥陀様の限りない光に照らされて一生懸命生きていきます。空を飛ぶ鳥、水をいく魚のように躍動する命です。沢庵禅師も宗矩も一生懸命生きました。
