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2026-07-29 00:42:00

68) 柳生心眼流の免許体系59   有無と手字種利剣 

私たちが生まれたり死んだり (見えていたり見えなくなったりするように見える) のは実際そのように見えているのですが、その動きの本体は心、あるいは心の相続 (心相続) ということになります。有無というのは自分が認識できるかどうか、つまり目の前に見えるかどうかで私たちは量ってしまいます。(こういうのを「有無の見」とか「量」といいます) 物質的なもの (仏教的には色といいます) は常に変化して、あるときは見えある時は見えなくなるもので、その裏で働いているもの (心、仏性、あいつ、かれなどいろいろに呼ばれます) はいつもそれと一緒に働き活動していて、いつもある (常なるもの) ものです。『玲瓏集』で沢庵禅師は「その源をよくたづねもてゆけば無始の一念にして」と表現しています。つまり始まるのない昔から心が続いていく。本心のことです。

ここで誤解をしていただきたくないので申しますと、これは沢庵禅師も宗矩も僧侶でない人にわかってもらおうと思って理解しやすいように工夫して話しているわけですが、仏教的には (つまり専門職向け、あるいは参学してある程度知っている在俗の方向けには) これだけではまだたりないのです。つまりなにか具体的なものでたとえると、どうしても実体的に受けとられやすいので、対象 (境・色) も映像・幻化をイメージしやすいものにたとえたり、それを把握している側の心である概念 (妄心) や裏で働いている心 (本心) などももう一押しして「空」(自性によって空とか言ったりします) であることをいったりします。

日本ではもともと神道の考えもあるためお坊様方も使い分けているとは思いますが、仏教では「魂」を独立した実体としての存在とは見ないので、心が続いていく(心相続) 状態というふうに考えます。『玲瓏集』では沢庵禅師は「その源をよくたづねもてゆけば無始の一念にして根 (感覚器官とそのはたらき) もなきものなり。根なくして先般万般の物出生する、これを妙ともいへり」と結んでいます。これは本心のことです。

一方、兵法としての理解は「見えるか見えないかは相手の心によって現れてくる」でよいと宗矩は考えていたようで、宗矩はこの理解を応用していろいろなところで手字種利剣の話が出てきます。これは主には手のうごきですが体の動きも含んでいます。これらの動きを「有無」とも言って最初からよく見て掛かるよう教えています。

この「手字種利剣」は十字、種子、手裏剣、種利剣などいろいろな書き方をします。私たちの流れでは十字や十文字は使いますが、しゅりけんの言葉は使わないで別の言葉を使います。

『月の抄』で十兵衛は「十文字とは種子 (注 しゅうじ) の改名也」「十文字にさえあへばあたらぬ也」「手裏見は手の内也」と記しています。またこの「裏」 (おそらくは裡の代用) の字に深い意味があって、中墨、高上、神妙剣の意味を含むとも書かれています。(「裏の字に心持あり。理に云。衣のうちに里をつつむと云心持あり。里は中墨、高上、神妙剣なり。心を衣につつみて置となり」) 私たちの流れにも「十字神妙剣の大事」という口伝があります。

これは兵法の基本の基本であるため、いろいろなところで言及されています。たとえば、『兵法家伝書』の「一 有無、拍子 附有も有、無も有と云事」では「太刀をにぎる手に有無と云事あり。秘伝也。是を種利剣と云也」としています。つまり、相手の心の状態によって手や体にいろいろな状態が現れたり消えたりするので、相手の太刀を握る手の状態がいろいろと変わるのですが、ここをよく見ろと言っています。目で見るというより心で見ることになります。これはうちの流派でも同じで、伝書に一々書くことではなく、立ち合いでいろいろと教えないといけないところです。なので宗矩も「如此云うとも相伝せずぱ此等の言葉しりがたき事也」言っています。

話が複雑になるのでそのあとの「有無非二」は飛ばして、結局「此種利剣の有無を見ることちがはば百手をつくしてつかふとも勝利あるべからず。百様の兵法も此の一段に極まる所也」と結んでいます。