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2026-08-04 23:03:00

69) 柳生心眼流の免許体系60  不生不滅

以前心が生じたり、滅したりということをお話ししましたが、もう少し詳しく考察します。

確かに心は変化はしています。しかしある時点で生ずるというのは、「ここから生じる」という区切り・境界線 (辺とか際・辺際といいます。図形、例えば三角形の辺と同じ意味です) が必要ですが、どこまでこれを細かく割っても最後に残るような点はみつかりません。 

数学でもユークリット幾何学で線は小さな点の集合と仮定していますが、それは仮定しているのであって、統計解析では線上に確率分布を仮定することもできます。そうすると別の世界が見えてくるという話です。

生まれたとき、起きたときと区切っているのは妄心・概念のはたらきで、世の中では便宜上実際に生まれた時を「ここだ」といっていますが、「ここと定義すればここ」というのが実際です。絶対的なものがあるのではありません。

区切りがあるなし、別の状態になるというという意味では滅するも同じことです。従って人生などすべての時間的空間的な広がりに対して同じようなことが言えます。(世俗の言語習慣では)とおり一遍には正しいように見えて、詳しく吟味すると「ここから生まれたといえない」ということです。このことを不生といいます。同じ理由で不滅も区切りがみつけられないので滅しているといえないということになります。これを不生不滅と表現しています。決して新しい意識になっていないとか、人間が生まれていないとか言っているわけではないです。自分では正しく認識しているつもりで、よく吟味すると自分で物語を生み出し、その認識 (概念) に自分の心がトラップされていることが問題なのです。こういうことはよくあります。

(自分)と他 (非自、つまり自分以外)を分けているのもそうで、それを定義すればそう思えるわけですが、どこからか他かというのはもともと絶対的に決まっているものではありません。自分の手は自分のような気がしますが、自分の髪の毛はどうでしょうか。自分のおなかは自分のもののように思いますが、腸の中の内容物や細菌は自でしょうか、他でしょうか。諸説ありになってしまうかも。自分の細胞ひとつひとつの遺伝情報は、自分のもののように見えて、実ははるか昔からの数えきれないご先祖様たちの生活の営みの集大成でもあります。人どころかもっと先まであったりして・・・多分あるのでしょう。進化論的には。

その場その場によって、見方、立場を変えて生きているのが私たちの現実です。夫であり父であり、子であり孫であり、友達であり、先生であり、弟子であり、男であり、買い物客であり、事業主であり、医師であり、患者であり、乗客であり、運転手であり・・・つまり私といっても決まったもの (自性といいます) はなく、関係性によって名前 (仮名・概念) がつくということ。子がいるから父母とよばれる。これを相互に依存しているといい、縁起しているともいい、また空であるといいます。竜樹は「縁起しているものは空である」と説明します。