ブログ

2026-08-11 00:31:00

70) 柳生心眼流の免許体系61  本当は自分は何をしたいのか

こういうことは龍樹の『中論』にいろいろな角度から詳しく考察されています。中論の冒頭に帰敬偈 (ききょうげ) というのがあって、「滅するのでもなく、生まれるのでもなく、途切れるのでもなく、ずっとあり続けるのでもなく、同じ (一緒) でもなく、異なる (別々) のでもなく、行くでもなく、来るでもないという縁起を、ある方 (お釈迦様) が説かれた。戯論 (概念・思考の空回り) を鎮める吉祥である仏の教説の中でも第一であるそのようなものに礼拝します」と書かれていて、これが中論の貫通するテーマになっています。(羅什訳中論では「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不多 不来亦不出 能説是因縁 善滅諸戯論 我稽首礼仏 所説中第一」) 以後のたくさんの偈文で龍樹はくりかえし概念の作り出すトラップに「あなたはそう思っているのでしょうが、本当にそう言うことができますか?」という雰囲気で問いかけます。龍樹はそれに対していろいろと検討を加えます。結果的にはその区切りや概念 (戯論) を作っているものの正体は自分という虚構 (我、妄心) であることに気づきます。

人は01か。自分とそれ以外。あるところから区切って区別して思考する、そういう2値の思考をしてしまいがちです。統計でもよく使います。これは判断にはいいです。わかりやすいです。これは生物が生き残るために獲得した、もっとも生存とリンクする本能かもしれないです。その判断ができなければ、種として生き残っていくことは難しいでしょう。とても大切な本能ですが、うまくいかなくなってくると問題を生じます。たいていは自我意識が亢進して自分を守ろうとするあまり、たとえば不要な攻撃をしてしまったり、怖くて体が動かなくなってしまったりします。

本当の自分は本心ですが、普段は妄心があまりにも親しいので妄心はあたかも自分であるかのごとくふるまいます。「そういえば、あのとき・・・」「あの人はこんなことを・・・」「どうして私は・・・」などなど。しかしこれは本当の自分ではない。「思考」「情動」でありいわば脳のおしゃべり。人生がうまくいかなくなったときにこのことが分かっていないと、自分を追い込んで本当に危険なことになります。人に向けた攻撃の矢は自分にも向かっているのです。そういう自分を観察しているもう一つの自分がいる。こういうことが分かっていくのを最近の心理学ではメタ認知といいます。第三世代の認知行動療法の「マインドフルネス瞑想」では、普段は本当の私 (全く一緒ではないのですが、ここではわかりやすく本心と同じと考えてください) と虚構の私 (妄心) が一体になっていて、「刺激→思考→衝動」が一瞬におこっているものを一つ一つ分けて分析していくことで、これは「刺激」だ、これは「思考」だ、これは「衝動」とわかっていきます。こういうのを「ラベリング」といいます。結果この2人の自分を分けて考えられる能力を培います。

人生がうまくいっているときはわからないのですが、何かのきっかけでうまくいかなくなると、人は自分の生みだす概念によって苦しみます。そうではない、そう苦しまなくていいというのが空のメッセージの1つでもあります。本当はどうなのか。自分は生きたい心、幸せになりたい心がある。星宗家は「そのときなんだ。自分が本当にしたいのは何なのかよく考えることだ」とおっしゃっていました。頭のぐるぐるに惑わされずに心の底から自分の本当の願い、何をすべきなのかに気づいていく。人生は幸せな時も大変な時もある。大切なのはそこの場で何を学び、何を得ていくのかということです。苦しみが幸せの原因になっていく。号泣し慟哭するような悲しみにあってさえ、そこから何を学ぶかによって人はよい方向に変わっていくことができます。