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71) 柳生心眼流の免許体系62 『太阿記』
本心と妄心の話を続けていきます。こういうことって、角度を変えて何回もきいているうちに、ああ、そうかとわかってきたりします。あまり一生懸命聞きすぎない方がいいかも。あまり難しいと思ったら、読み飛ばしていただいていいと思います。あるときふっとわかったりします。
『兵法家伝書』で、宗矩は「心に本心妄心とて二つあり。本心を得て本心の様になせば、一切の事すぐ也。本心、妄心におほわれて (覆われて) まがり (曲がり) けがれ (穢れ) ぬれば、一切のしわざ (仕業) まがりけがれぬる也。本心妄心とて、黒白なる物にならひて各々あるべきにあらず。本心と云は本来の面目、父母未生以前よりそなはりて (備わりて) かたち (形な) ければ生ずると云事なし。滅する事なし。」と説明しています。
現代語にわかりやすく変換すると、「心には本心と妄心との2つの心があります。本心というものが分かって本心にしたがって生きるようになれば、すべてのことがまっすぐです。本心が妄心におおわれてしまって、曲がったりよごれてしまえば、することはみなよごれてしまいます。本心とか妄心とかいつても、白い色した心と黒い色した心が物のように存在しているわけではありません。本心というのは本来の面目といわれたりする心で、両親が私が生まれたことにより父母となる前から (つまりこの世に私が生まれる前から) 私に備わっている心で、形もなければあるところで生じたということもありません。そうですから、あるところから滅するということもありません」
自分だけで生きるためなら周囲はどうなってもいいというのは「我」の極端な形で、そこまでいかなくとも人は自分にとって損か得かということをある程度量って生きているのが世俗です。もちろん私もそうです。我は捨てられないし、生きる以上捨ててはいけないです。そういったところで働いている心は「妄心」 (自己を中心とした概念・区別の世界) と呼ばれます。ある意味で私たちは妄心のかたまり。
真面目に生きているのに妄心とはなんだと怒らないでください。仏教はよく2つに分けます。今は2つに分類して考えているということなんです。色 (「しき」と読みます。物質的なもの)と心、世俗諦と勝義諦、色身と法身、慈悲と智慧、衆生と仏とか。そして基本的にその2つは左手と右手を合わせたときのように不即不離の関係 (不二) にあることが多いです。
別の話かもしれませんが私たちの流れでも表と裏は不即不離です。伝書で文字がかいてある表と真っ白な裏がありますが、まさに紙の表と裏の構造になっています。表の技と裏の技は両者が密接に結びつかないといけません。独立に両者があるわけではありません。どう結び付けていくか、こういうところをしっかりとわかっていくことが稽古です。
さて、沢庵禅師は『不動智神妙録』より後、晩年近くになって『太阿記』というのを書いていています。学問的に確定しているのかわからないのですが最近ではこれも宗矩や家光のために書いたという理解になっているようです。
『太阿記』は武道というよりは禅的な仕様になっています。ある程度武道や仏教の基礎が分かった方向け。少し難解な書になっていて漢文だけでは難しいと思ったのか、自注 (自分で書いた論書に、自分で注釈をつける) として解説を付けています。武道の解説というよりは武や剣、勝負という、当時の武士が関心を持ちそうな話題や言葉から入って、禅の奥深いところに導こうとする意図がうかがわれます。ですので武道に入ったばかりの方が初めて手に取るにはかなり難易度高いです。ただ宗矩に示されたということであれば、ある程度武道が分かった来た方向けに少し触れておいた方がよいと思われます。
