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2026-09-01 23:29:00

72) 柳生心眼流の免許体系63  此の太阿の利剣、人々具足し箇々円成す

『太阿記』の中で『不動智神妙録』の本心と妄心のように「真我」と「人我」を持ちだして真我が大切なことを説明しようとします。ここでは『不動智神妙録』で「心」と提示していたものが、さらに具体的な形で「我」(「が」と読みます) と示されます。仏教的・哲学的なところもあり、初めの段階では「心」として説明したのでしょう。自分の「心」とは何かをある程度坐禅とかしてわかっていないと、何か別の何かと勘違いしてしまう可能性もあり、初めは「心」と説明していたのではないかと思います。

仏教の話になってしまいますが、すべての煩悩の根本は 「無明」(むみょう)といい、自己執着 (我執) のことです。つまり、自分を実体化し ()、自分のもの (我所) とそうでないものに区別し執着する働きからすべての煩悩が発しています。この「我」や我によって作られた自分の世界 (家、自分が作り上げた概念の世界) がなんたるかが本当にわかったときに、お釈迦様は「家を作る者よ、汝の正体は見破られた(法句経) とおっしゃいました。

「我」とはサンスクリット語のアートマンを訳した言葉ですが、ここでは普段私たちが「私」や「人」と思っているもの、あるいは思い込んでいるものと考えると分かりやすいと思います。沢庵禅師は『太阿記』で私、つまり我 ()、それには普段自分の思っている「私」(人我) とその奥底にある「私」(真我) 2つあるのだと言っています。つまりふたつの私。このうちの真我は仏性であると禅師は述べています。

真我の我とは天地未分已前、父母未生已前の我なり。此の我は、我にも鳥獣畜類草木一切の物にある我なり。即ち仏性と云ふもの是なり(真の我というときの我は、天地とか父母とか概念で考えている世界の奥底にある我であって、この我は私だけでなく鳥にも獣にも、家畜にも、草木にも一切の「物」にある我です。つまりは仏性といわれているものがこれです) とか、「此の我は影もなく、形もなく、生もなく死もなき我なり(この真我の私とは姿もなく、形もなく、生まれるということもなく、死ぬということもない私です)とか。つまり、『不動智神妙録』の本心に相当すると考えたらいいと思います。あまり言葉にとらわれないでください。

この本心、仏性を天下に比類ない名剣にたとえて太阿の利剣と示して、「此の太阿の利剣、人々具足し箇々円成す(この仏性というのは、ひとりとひとりが初めからもっているもので、また一つ一つがすべて完成している)とか、「是の心は生の時に生ずるに非ず。死の時に死する非ざるが故に本来の面目と云う」(この心 (本心、仏性) は人が生まれるときにできるものではない。人が死ぬとき一緒になくなるものでもないから、ずっと昔からある本当の顔ともいう) とか説明しています。

ここらへんは仏教そのものでとても難しいと思いますが、本心・真我・仏性は私たちが生まれる以前から死んだあとも、ずっと始めなく終わりなく続いているもので、仏性とも本来の面目ともいって、(私たちの流れの心・無心もこの意味を含みます) 私たちひとりひとりにはみな完全なものが備わっていると言っています。

この仏性は本当は誰かがどうにかしようとしても、どうにかなるものではない。「天も之を覆すこと能わず、地も之を載すること能わず、火も之を焼くこと能わず、水も之を湿すこと能わず、風も之を透すこと能はざるが故に」。つまりどうしようもない。龍樹は空であることの理解によってものを語る人に概念で論難してもどうすることもできないと言っていますし、臨済禅師は虚空にくぎは打てないといい、お寺には空の象徴として仏様を安置しているのだと瑩山禅師はおっしゃっています。

そして沢庵禅師によると、その仏性のはたらきは「彼の名剣の刃に障るものなきと一般なるが故にこの妙用の力を太阿の剣とは名づくるなり(あの名剣の刃にかかっては何でも切れてしまう (つまりとても固いものでも妨げられない、何によっても妨げられない、無制限) のと同じであるがために、この素晴らしい仏性の働きの力を太阿の剣と名付けるのだ)とのことです。