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75) 柳生心眼流の免許体系66 窮め去り、窮め来って、直ちに見るべし
長々とお話して何がいいたいのかというと、沢庵禅師の『太阿記』で人我と真我 (『兵法家伝書』の本心と妄心と同様の設定) を兵法者に示しています。しかしこれは剣とか、勝負とか兵法者に関心のある言葉を用いていながら、実は兵法者に禅の求道修行の目的やアウトライン (基・教といいます)、方法 (道・行といいます) 、その結果 (果・証といいます) どういうものかということを知らせようとしているのです。ここからは武道家であるなしにかかわらず、参禅とはどういうことかを学ぶことができます。たいへん有益です。
そして兵法の学び方、つまりどのように道を求めていけばいいかというともおのずと知られます。
沢庵禅師は「這箇を得んと欲すれば、行住坐臥、語裡黙裡、茶裡飯裡、急に眼を着けて、窮め去り、窮め来って、直ちに見るべし。月積み年久しくして、自然暗裡に燈を得るが如きに相似て、無師の智を得、無作の妙用を発す」(そのことを分かろうとするなら、日常生活でも、話していても黙っていても、茶を飲んでいても飯を食べていても、しっかりと集中して、あたらからもこちらからも研究しつくして、ただまっすぐに見ていくべきです。いく月もいく年もたって、自然に暗闇にろうそくに火をともすように、師匠から教わってわけではない智恵を得て、はからいのないほど自然で素晴らしいはたらきを発するようになります) と言っています。
沢庵禅師は禅の修行のことを言っているのですが、兵法の修行もその通りです。確かに習ったときの自分の理解もひとつあるわけですが、長年にわたって続けていき、あちらからもこちらからも工夫し研究を続けていくと、あるとき「ああ、そういうことだったか」「なるほど」と気づくものがあります。結果として習った技とは同じ技とは思えないほどに技は変化していきます。私のおそわった四方陰と島津先生の教わった四方陰の形が違っていて、初めは気づきませんでした。島津先生が演武していたときに気づかず、星先生に「あれは何という技ですか」とお聞きしたところ、「お前にも教えただろう」と言われて非常に驚いたことを覚えています。星先生が違えて教えている。しかし根は一緒。
星国雄先生と島津兼治先生の共著『正伝 柳生心眼流兵法術』は、わからない方が見ればたくさんの技に見えるのですが、実は原則をたくさんに展開してみせたものがかなり多いのです。これらは島津先生のために星先生が示してくださったものなので、私たちは別の形で稽古しますが、実は同じものだったりします。ですので島津先生の流れの方はぜひ『正伝 柳生心眼流兵法術』にある形で稽古されるとよいと思います。これは新田の形もそうです。新田柳心館に通われている方は新田柳心館で星徳一宗家が教えるように稽古することが大切です。あちらこちらに見に行くのはいいのですが、あっちからもこっちからもとりいれて中途半端になるくらいなら、一本の筋を通してとことん教わった形を稽古するのがいいです。もちろん、自分勝手な理解ということではなく、十分に先生から指導を受けることが前提です。
分かってる人がみれば、それが同じ「もとの形」からきていることが分かります。同流をしている者なら見てああと納得するものがあります。「そうそう、それそれ」という感じです。これが、他流からもちこまれるとそうはいかないのです。あとから付け加えたんだなと感づいてしまいます。
しかも変化の仕方が半端ないです。星先生はこのことが「うちの特徴だ」とおっしゃっていました。『正伝 柳生心眼流兵法術』はそれを知る上で私たちにとっても大切な参考資料です。ここまで変化するのだという見本を先生が示してくださっているのです。
私自身も、奥に行くと一関総本部に教えた形と柳正館で教えている形は異なっているものがあります。一関総本部でも教えたものは教わった通りに意地でも稽古していただけるといいです。とくに長年している方で意地を見せない方にそれ以上のことを教えることはないです。ベテランさんの「忘れてしまったからまた教えて」は受け入れる必要がないと思っています。その程度にしか思っていないということだからです。
結論として、私たちは教えていただいた形とおりに稽古してその意味が次第に分かってくるし、自分でもたくさんに展開していくことができるようになります。「窮め去り、窮め来って、直ちに見るべし。月積み年久しくして、自然暗裡に燈を得るが如きに相似て、無師の智を得、無作の妙用を発す」です。だからこそ基礎として教えられた技をしっかり稽古し続けることはとても大切なのです。そして何かがわかっても、それにとどまってはなりません。何事もなかったかのごとくに稽古を続けていくのです。人がどうこうということは関係ありません。自分が何をするか。武道とはそういうものです。
