ブログ

2026-09-29 00:29:00

76) 柳生心眼流の免許体系67   取らず取らせず 

令和8年9月20日に宮城県の新田で「柳生心眼流兵法新田柳心館 創立九十周年記念式典」(主催 柳生心眼流兵法新田柳新館、共催 新田地区コミニティ推進協議会、後援 登米市) が第21代宗家、星徳一先生のもとで多数の方々を迎えて盛大に開催されました。私たちの道場もお祝いに馳せ参じて演武をさせていただきました。

新田柳心館は昭和11年に星彦十郎先生が創立され、星家と地域の方々の努力で続いてきました。式典では星徳一宗家により奉祭の儀が執り行われ伝統の奉祭文が読誦されました。来賓の方の挨拶では「不屈で誇り高い新田の精神」という言葉をお聞きしました。まさに武道を培ってきた気風であり、私の師である星国雄先生もその気風をお持ちでした。どんなことがあっても負けていられない、精神まで曲げてはいけないと言われて育てられた私にとり、心を打つ式典でありました。

新田のお子さん方の演武や門人の方々の演武を拝見して、新田にこれからも柳生心眼流兵法が続いていくよう願わずにはいられません。創立90周年を心よりお祝い申し上げ、新田柳心館のますますのご隆盛を祈念申し上げます。

 

 今日の内容に入ります。

『太阿記』や『兵法家伝書』では、本心と妄心、人我と真我と2値に分けて説明が行われました。このうち、自と他 (自分以外) という2値を離れて自分も周りもみな共に生きているというのは「大我」とか「真我」、「無我」といわれます。私たちの流儀の「無心」もここに属している心です。

自分が経験してさえこんなにつらいのだからあの人はさぞつらかろう。そうしたら自分は何ができるのだろう。どうしたらいいだろう。こういったことの裏ではたらいている心は「本心」から現れてくるもの。

自分の痛みの体験をもとにして他人の苦しみに目を向けて (悲) 広げていくと、やがてすべての生きとしいけるもののあり様や痛み・苦しみにも目が向いてくる。そういう心を仏教では大悲といいます。この基礎は自分の苦しみにも気づき、そしてそれを他人に置き換えていくという作業です。

そしていつも笑顔。「兼日柔和たるべし」です。育てる心、守る心、やさしさです (慈)。

武道にとってもここは大切です。自分や他人の痛みのわからない人に相手を制圧したり傷つけたりする方法を教えるのはとても危険だからです。無用な争いで人を傷つけ、自分が傷つく可能性もあるからです。石舟斎の『兵法百首』には

「義理情ふかき弟子にと兵法の 極意を惜しみ秘事や果たさん」

「兵法の師となるならば弟子にまづ 法度を教へ心をよく見よ」

「人を斬らん心はしばし兵法に 我が討たれぬ習ひしてまで」

「兵法師仁に心のなかりせば 位上手のかひはあらじな」

「道をたて兵法の師と号すし修行する輩、その流稽古をもきはめず、手柄だての口上にほこり、仕合をしうたれ一流の師に科 (とが) をきす。宗厳年月笑止に存ずるのみ」

まず心がけから入ります。入門したころ「五常仁義失わず」「やわらとは取らず取らせず」「あそこに敵がいるからこちらか行って斬るというものではない」「負けたようにして出てくるのがいちばん」「あとからでもわかってくれればいい」などいろいろと心得をいただきました。武道は自分が忍耐し、慎むことから始まっています。そして、皆伝を過ぎてもこれはずっと大切なことです。それは兵法を実際に行使してしまえば自分が傷つくか、相手が傷つくかであって、どちらかに一生消えない傷をのこし、最悪は命まで落としてしまうのです。そのことの重大性はわが身にそれがおこったらと感じることによって、漠然としてではなくより具体的にわかるものです。

ここはとても大切です。私たちの流派だけでなくいろいろな古武道の流派の先生方がいろいろな言葉で示されています。

ある先生から以前お聞きしたお話です。授業で子供たちに古武道を教える前に、初めに自分の腕を軽く打たせて、その痛みが分かれば相手の痛みもわかるはずだと教えるとのことです。

ある先生は「地図を上下逆にしてみてください。水が逆に流れますよ」とおっしゃいました。これも同じ道理だと思います。相手にその手を使うことがもし自分に対してであったらどう感じるかです。

無我は自分が無いとか、自分がどうなってもいいのではなく、自分も大勢の中のかけがえのない大切な一人。自分と同じように他人がいとおしいと思える心。その心が分かるためには、まず自分の痛みという体験を通して他人の痛みを推し量ることです。苦労や苦しみは誰にでも訪れます。決して望んではいないことなのですが、このことによって、人はさらに深く他人の痛みをわかることのできる人間になっていきます。