ブログ

2026-10-13 23:08:00

78) 柳生心眼流の免許体系69   一心の動かぬ、身を動転せぬ

余計なことに目が行くことが多い世の中ですが、目的に集中することが大切です。そして目的のために動き働いて少しも止まらない。自分の仕事をしようとしてインターネットを開くと、ニュースや広告、フィッシングメールなどに気を取られて本来の仕事を忘れてしまったりします。これ、ひっかったということです。

自然で何気ないほどひっかかったりします。犬が動きを止める、鳥がこちらを向く、向こうの人が動いている、それだけでそれに反応してしまう自分がいたりします。こういうことを兵法に使うこともあります。

それらに気をとられず平然として自分の仕事をする。沢庵禅師の文脈ではこのようなことができるようになることを「不動智」が開いたと言っています。

『不動智神妙録』では「不動とはうごかずといふ文字にて候。智は智慧の智にて候。不動と申し候ても石か木かのように、無性なる義理にてはなく候。向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、卒度も止らぬ心を、不動智と申し候」(不動というのは、動かないという文字です。智は仏様の智慧の智です動かないといっても、石や木のように心がないので動かないという意味ではないです。前にも左にも右にも、十方八法のどのような方向にも心は動きたいように動きながら、少しも止まらない心を不動智といいます)

これはお不動様がわき目もくれずに衆生済度のために動き回っていることにたとえています。菩提心のためにはたらいてわき目をふらないのがお不動様です。常に目的のために奔走して心が揺るがないということです。お不動様の活動はそれだけにとどまるものではないのですが、沢庵禅師はその一部の側面をたとえて武道をする人のために説明をしています。

「不動明王と申して、右の手に剣を握り左の手に縄を取りて歯を喰出し眼を怒らし仏法を妨げん悪魔を降伏せんとて突立て居られ候姿も、あの様なるが何国の世界にもかくれて居られ候にてはなし。容 (かたち) をば仏法守護の形に作り、体をばこの不動智を体として衆生に見せたるにて候」(不動明王というのは、右手に剣を、左手に縄を持って歯を喰いしばり、目を怒らせています。仏法を妨げようとする悪魔を降伏しようとして立っていらっしゃる御姿ですが、どこかの仏国土に隠れていらっしゃるのではありません。本体はなにかといえば不動智のことを示していて、姿を仏の教えを守る形に作って私たちに見せているのです)

このお不動様の尊像は、実は私たちのため現れてくださった姿で、本来お不動様に姿形はありません。そういう状態を法身といいます。そこから慈悲の心をもって立ち上がってくださった姿です。ですので、それぞれの状況、それぞれの時間と場所、それぞれの姿で現れて衆生を救っていらっしゃるので、あるときは笑っていらっしゃるかもしれないです。ですがここではそういうように、つまり怒りの御姿 (忿怒) を見るということが大切です。そうすると、

「一向の凡夫は、怖れをなして仏法に仇をなさじと思ひ、悟りに近き人は不動智を表したら所を悟りて一切の迷いを晴らし、即ち不動智を明め」(一心にお不動様を信仰している凡夫からみれぱ、こわい御姿だ、仏様に迷惑をかけるようなことはすまいと思うし、よく仏教を学んだひとであれば、その御姿が不動智を表していることを知って、その場で不動智の何たるかを理解す) るようになる。

本当に誤解のないよう申しますが、お不動様の持たれている剣は仏様の智慧 (空性・縁起を理解する心)、そして縄は慈悲 (あなたから離れないという慈悲の心、方便ともいいます) を表していて、お不動様の心は常に菩提心に住して、そのような働きにいそしんでいらっしゃいます。そのエネルギーがすごい。決して縛って切ってやるでも俺がたたき斬ってやるはないです。ただ、見る方によっては自身にそういう心があるためにそのように見えてしまい、怖くなります。降伏 (ごうぶく) いうと何か怖いイメージですが、降伏のもともとの意味は心を制御 (調御ともいいます) することです。つまりコントロールをすることです。人は心をコントロールしないことで不幸になっていく、つまり同じ状況にあってある人は幸いと思い、ある人は不幸だと思うというのが仏教の基本的な立場。ですので悪魔というのも自分の煩悩を言っていて、外因によって振れうごく自身の心です。自分の煩悩に勝った人を真の勇者 (勝者) と仏教では呼びます。

「この心法をよく執行したる人は悪魔もいやまさぬぞと知らせん為の不動明王にて候」(このようなこころの道理をよくよく考えて修行する人は悪魔というのはいないのだ、つまり自分の中に作り出したイメージであり空であるということを知らせようとして不動明王がいらっしゃるのです) 自分の煩悩によって悪いことをしてしまう、家族や先生、仏様の悲しむようなことをしてしまう。これをしないようにという戒めの御姿でもありますし、つらい状況のときに本当に何をしたらいいか、どのように動いたらしたらいいかを見抜けないで、自我意識によって別の行動をしてしまったりします。そういうときこそ周りの人たちの幸せを考えて行動していけば自分も救われていきます。悪いことがおこったときもどうそれを回避し、何を学ぶかはとても大切です。

「然れば不動明王と申すも人の一心の動かぬ所を申し候。また、身を動転せぬことにて候。動転せぬとは物事に留まらぬ事にて候」 (そうであるから、不動明王というのも人の心の動かないところを言っています。また、体を不要に動かないさないことです。ものごとにとらわれないことです) ここからが禅的な表現です。お不動様も観音様も円相も「関」とか「無」とか「忍」とかの文字も、実は自分自身の心身、ひいては行動や生き方に当てはめ顧みていきます。まさに「心の置き所」です。