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2026-10-20 23:55:00

79) 柳生心眼流の免許体系70     千晩通いの肝試し

沢庵禅師の「身を動転せぬことにて候。動転せぬとは物毎に留まらぬ事にて候」(体を動転させないことです。動転しないというのは目の前の事象に心をとどめないことです)「物一目見て、その心を止めぬを不動と申し候」(なにかを一目みてもその心をとどめないのを不動というのです) をもう少し検討したいと思います。

武道的な意味でまず参考になるのが、新田で星貞吉の時代に合った千晩通いの肝試しです。昔、新田では「千万通いは皆伝を許す」というのがあって、千晩通った人もけっこういたそうです。でもそのままで皆伝は許しません。千晩に近くなると、途中の藪で肝試しをします。人が暗闇に隠れていて、上からものを落としたり、人魂見せたりいろいろといたずらをします。そのときに動転して大声を上げたり腰抜かしたなどという人は不合格です。ちらっと見たらにやっと笑って「これはこれはご苦労様でございます」と言って通り過ぎるくらいの度量がなければ皆伝は許さなかったそうです。これはいい例です。今だったらスルー。

実はこういうことも急に何かが落ちてきたらやはら驚くと思います。その前から何かがいるなということには感づいている。そのうえで「ああ、誰かがいたずらしているのだ」とわかるという順序だてがあります。この気づき、なにかに気づくというのは私たちの流れでは武道を稽古していると自然にできるようになっていくといわれています。二十一箇条を無心に稽古して心を澄ますことです。「俺のように鈍い者でもそうなるのだから、君たちも必ずできるようになる」とおっしゃってくださいました。

星国雄先生は「武道家であれば、普段にこやかにしていても、何か殺気みたいなものを感じるとキッと目だけ厳しくなるが、また戻る。これはしょうがない」と言っていました。キッと見てすぐ戻る。留めない。しかし油断なく周囲を観察し、準備はしています。

江戸時代、使者の間で待つときもそうでした。どこの屏風のうらに武者が潜んでいるか。道すがらずっと離れたところに隠れている相手も感じなくてはいけないといいます。難しいですが。このとき自分から行って斬るではないといわれます。相手がわが身に近づいてきたとき勝負の間合いになります。何歩でくるか、きたらどうよけるか、こういたことも待っている間に考えておくものだと習いました。なかなかこのような場合では平然とするというのはできないかもしれないですが・・・ これは刀の時代の話ですので、飛び道具になればまた異なることと思いますし、現在とは状況も違いますので、今は今で身の守り方は考えなければなりません。こういうことから何かを学んでいただければと思い、参考まで申し上げました。

宗矩も『兵法家伝書』で、「二目遣の事 ・・敵のはたらきを見る見るようにして見ず、見ぬようにして見て、間々に油断なく、一所に目ををかず、目をうつしてちゃくちゃくと見る也・・・敵のはたらきをちゃくちゃくと盗み見に見て油断なくはたらくべき也」(二目つかいのこと ‥敵の動きを見るときに、見るようにして見ず、見ないようにして見ている。その間も油断なくひとつところに目を集中させず、目標を移動させながらちゃくちゃくと見ていきます) と述べています。

この「ちゃくちゃくと」というのが大切で、着々と、つまり遅滞なく確実に。つまり相手の体のいろいろな部分から目も心もとどめず情報収集し、武器が身に届かんとする瞬間まで油断なく当たれと。「二目つかひ」という言葉自体は能の言葉で「見とめぬ也」(目線を一所にとどめないこと)と書いてあります。そして、こういうことは平生においても、いろいろと状況の変化を感じ取って仕事をしていくことにも通じていきます。